じじぃの「人の死にざま_1376_クーデンホーフ・光子」

The reason, Why EU Flag resembles the Japanese national Flag ? 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=0ytlITxytzo
musical MITSUKO プレイベント 動画 ustream
http://www.ustream.tv/recorded/14310037
クーデンホーフ・光子


クーデンホーフ光子 ウィキペディアWikipedia)より
クーデンホーフ=カレルギー光子(旧名:青山みつ Mitsuko Coudenhove-Kalergi, 1874年7月24日 - 1941年8月27日)はオーストリア・ハンガリー帝国の貴族、ハインリヒ・クーデンホーフ=カレルギーの妻でリヒャルト・クーデンホーフ=カレルギーの母。
日本人でただ1人、オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世と会話した人物。
第一次世界大戦オーストリア=ハンガリー帝国が崩壊したことに伴い、クーデンホーフ=カレルギー家も過半の財産を消失、更に1925年には脳溢血により右半身不随となるなど不幸な生活を送った。その後はウィーン郊外で唯一の理解者であった次女・オルガの介護により静養の日々をすごすようになる。このころの唯一の楽しみはウィーンの日本大使館に出かけて大使館員たちと日本語で世間話をし、日本から送られてくる新聞や本を読むことであった。
1941年8月27日、第二次世界大戦の火の手がヨーロッパを覆う中、光子はオルガに見守られながら亡くなる。ついに日本に帰ることはなかった。
リヒャルト・クーデンホーフ=カレルギー ウィキペディアWikipedia)より
リヒャルト・ニコラウス・栄次郎・クーデンホーフ=カレルギー(ドイツ語: Richard Nicolaus Eijiro Coudenhove-Kalergi、1894年11月16日 - 1972年7月27日)は、クーデンホーフ家とカレルギー家が連携した伯爵一族クーデンホーフ=カレルギー家の人物で、東京生まれのオーストリア政治活動家。汎ヨーロッパ連合主宰者。別名、青山栄次郎。
汎ヨーロッパ主義(パン・ヨーロッパ主義)を提唱し、それは後世の欧州連合構想の先駆けとなった。そのため欧州連合の父の一人に数えられる。
クーデンホーフ=カレルギー夫妻の7人の子の次男として1894年に東京府に生まれる。一家は1896年に日本を離れ、父親の故郷オーストリア=ハンガリー帝国へ行き(リヒャルトと兄は父母と別の経路で行った)、ロンスペルク城で兄弟姉妹とともに育つ。
【映画 カサブランカ
クーデンホーフ=カレルギーは第二次世界大戦下の1942年に公開されたアメリカ映画「カサブランカ」に登場する人物のモデルであると言われている。

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NHK特集 「ミツコ 二つの世紀末」 1987年 NHKアーカイブス
【主な出演者】吉永小百合
1895年(明治28年)、国際結婚によってヨーロッパの伯爵夫人となった青山光子。
その生涯と家族がたどった数奇な運命を、明治時代から現代(昭和)、激動するヨーロッパの歴史の中でたどるドキュメンタリードラマシリーズ。ミツコの子どもたちは拘留、亡命、難民と、苦難をなめるが、その子孫たちはたくましく生きていた。
http://cgi2.nhk.or.jp/archives/tv60bin/detail/index.cgi?das_id=D0009010334_00000
ありえへん!∞世界 「世界と日本の知られざる絆」 2014年7月1日 テレビ東京
【出演】関ジャニ∞美輪明宏ベッキー宮崎哲弥宅麻伸高嶋政伸、その他
海外で活躍した、知られざる波瀾万丈な日本人が続々登場!
オーストリアで「ヨーロッパの母」と称されるクーデンホーフ・光子
クーデンホーフ光子(クーデンホーフ=カレルギー光子)は、1874年(明治7年)7月24日に青山みつとして、東京で骨董品店を営む父・青山喜八と母・津禰(つね)の三女として生まれました。
18歳のとき、オーストリア・ハンガリー帝国の貴族で大使として東京に赴任していたハインリヒ・クーデンホーフ=カレルギーに見初められて結婚。
その後、長男、次男をもうけ1896年(明治29年)に夫とともにオーストリア・ハンガリー帝国へと渡ります。
ちなみに、次男は欧州連合EU)の礎を築いたことで知られるリヒャルト・クーデンホーフ=カレルギー(日本名:青山栄次郎)。
当初は、東の果てからやってきた日本人と奇異の目で見られ、とても苦労が多かったそうです。そんな妻を夫は「光子を自分たちと同じように扱わない者には決闘を申し込む」と強い姿勢で守ったといいます。
夫婦仲はとても良かったそうですが、10ヵ国語以上を理解し教養レベルが高かったハインリヒ・クーデンホーフ=カレルギーに対し、尋常小学校卒業レベルの学力しかなかった光子はヨーロッパに渡ったあと、歴史から語学、礼儀作法にいたるまで猛勉強に励んだそうです。
日露戦争の翌年、1906年5月に夫が心臓発作で急死。以後、光子は女手ひとつで7人の子どもを育てあげます。
晩年の楽しみは、ウィーンの日本大使館で大使館員と日本語で世間話をすることだったそうです。
そして戦火がヨーロッパ中を覆い、太平洋戦争勃発直前の1941年(昭和16年)8月27日に、次女に見送られて亡くなりました。結婚後、ヨーロッパに渡ってから一度も日本の地を踏むことはなかったそうです。
http://www.tv-tokyo.co.jp/ariehen/
7月1日 テレビ東京 ありえへん!∞世界 「世界と日本の知られざる絆」より
オーストリアで「ヨーロッパの母」と称されるクーデンホーフ・光子】
クーデンホーフ・光子(1874〜1941年) 旧姓 青山光子。
大きなお墓の前に、折り紙で作られた鶴が置かれている映像が出てきた。
亡くなってから70年以上経つ今でも、彼女への尊敬の念を込め、「折り鶴」を供える人が後をたたないといいます。
亡くなった際には、新聞でその事実が大々的に報じられるほどの人物だったのですが。
実は彼女、今から120年前、18歳にして日本人初の国際結婚をし、日本から遠く離れたオーストリアへ渡った女性です。
女の腕1つで何と7人もの子供を育て上げ、その一人が切手になるほどの偉大な人物へと成長するのです。