じじぃの「人の死にざま_1354_アフガーニー」

簡単イスラーム解説 1/8 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=u4bndXaZxkg
アフガーニーの頭を叩いてみた The head of the afghani was hit 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=Om6G79P37VU
イスラームの改革と連帯を唱えたアフガーニー



ジャマールッディーン・アフガーニー ウィキペディアWikipedia)より
ジャマールッディーン・アフガーニー(1839年 - 1897年5月9日)は、19世紀に活躍したイスラーム活動家の一人であり、汎イスラム主義(英語版)を唱えた。イスラーム世界に外国の統治が及ぶのを拒絶し、オスマン帝国やガージャール朝の専制体制を批判した。また、アフガーニーの信念は、ムスリムの間での団結が欠けていることに問題があるというものであった。アフガーニーは、また、絶対君主制よりも、法による統治が優れていると確信していた。彼の伝統的なマドラサにおける教育は、ファルサファと呼ばれるイスラーム哲学とイルファーンと呼ばれる神秘主義に基づいていた。

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イスラームの生活を知る事典』 塩尻和子・池田美佐子/著 東京堂出版 2004年発行
近代化・政治・国際関係 (一部抜粋しています)
近代における西洋との接触とその対応という経験は、かならずしもイスラーム世界に限ったことではなく、日本をはじめ、非西洋世界すべてが直面した。日本においては、幕末から明治にかけての大変革、さらに紆余曲折を経て現代にまでいたる日本の近代の歴史ともおおくの共通点があり、これを改めて考えることは大変興味深い。しかし、イスラーム世界特有の事情もある。イスラーム世界では近代にいたるまで、イスラーム法を核にイスラームが個人の生活はもちろんのこと、社会や国家の枠組みをも形式的あるいは実質的に形成してきた。イスラームは政治や社会の事項もふくめ現世におけるあらゆる事柄を規定するという大前提が、西洋の衝撃の前に根本的に揺らいでしまったのである。さらに、イスラーム世界には、西洋列強の植民地や半植民地、軍事占領地となった地域がおおく、帝国主義からの解放と国家独立の達成という目標が西洋との関係で中核的な意味をもったことも特徴である。
[20世紀半ばまで――改革運動、近代国庫、ムスリム同胞団]
19世紀の半ばになると西欧列強の力がますます明白となり、当時の最大のイスラーム帝国であったオスマン朝は自らの国家尾再度強化するために、軍隊や行政機構の改革のみならず、これまでイスラームの制度の中心をなした法や教育の分野にもメスを入れ、西洋の精度を取り入れるようになった。同時に、1830年のフランスによるアルジェリアの植民地化を皮切りに英仏をはじめとする列強のイスラーム世界への侵略が始まり、これはイスラーム世界にとっておおきな脅威となった。法体系や教育における西洋システムの導入は、これまでイスラームの発展と維持を担ってきたと自負するウラマーたちにとっては大きな危機として捉えられた。これを契機として、イスラームの危機に対峙し、改革を唱える運動が展開されていった。イラン出身でイスラーム世界を股にかけて活躍したアフガーニーやその弟子であるエジプト人のアブドゥフは、イスラーム改革運動を展開して、イスラーム世界の連隊に強い影響を与えた。かれらは、西洋の侵略に対抗するためのイスラーム世界に連帯を呼び掛けるだけでなく、当時のイスラームの停滞を内部から批判し、預言者ムハンマドや教友たちの時代を理想としてイスラームを時代に対応できるものに改革し、それによってイスラームを内側から強固にすることを提唱した。