じじぃの「人の死にざま_1312_宋・美齢」

宋美齢 - あのひと検索 SPYSEE
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宋美齡第一次被邀請至美國國會演講 - 2013 慶七十周年紀念 動画 YouTube
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Madame Chiang Kai-shek profile 1945 動画 YouTube
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宋姉妹

タイム誌の表紙に飾った宋美齢蒋介石

宋美齢氏の伝記的な生涯 人民網日本語版
蒋介石の抗日、反共と台湾保持はいずれも米国の支援を必要としたが、これは宋美齢の存在そのものが米国の支持を取り付ける最大の眼目となっていた。彼女が外交上突出したパフォーマンスを演じたのは1943年。「米国征服」のための訪米と、中米英3ヵ国によるカイロ会談であった。
http://j.people.com.cn/cehua/20031110/home.htm
宋美齢 ウィキペディアWikipedia)より
宋 美齢(そう びれい、1897年3月5日(1898年2月12日、1901年など諸説あり) - 2003年10月23日)は、中華民国の指導者蒋介石の妻、輔仁大学理事長(1967年-1992年)、中国国民党中央委員会委員、中国国民党航空委員会秘書長。欧米では蒋介石夫人/Madame Chiang Kai-shekと呼ばれた。
蒋介石のスポークスマン】
宋美齢親中派フランクリン・ルーズベルト大統領やその妻エレノアと親密な関係を構築し、日中戦争から第二次世界大戦に至るアメリカの対日政策に大きな影響を与えたといわれる。
1943年2月18日には、ワシントンD.C.アメリ連邦議会において宝石をちりばめた中華民国空軍のバッジを着けたチャイナドレス姿で抗日戦へのさらなる協力を求める演説を行い、並み入る連邦議員のみならず全米から称賛を浴びその支持を増やした。
同時期に抗日戦へのアメリカ市民からの義捐金を募るためにカリフォルニア州ハリウッドで演説した際には、メアリー・ピックフォードハンフリー・ボガートキャサリン・ヘプバーンイングリッド・バーグマンなどの多数のハリウッドスターから大きな称賛と金銭的なものを含む支援を受けた。
また、アメリカをはじめとする連合国における抗日戦のシンボル的存在として蒋介石とともに『タイム』誌の表紙を飾るなど、第二次世界大戦中を通じて中華民国のファーストレディとして、そして夫で英語を話せない蒋介石のスポークスマン兼中華民国ロビイスト的役割を果たし、アメリカをはじめとする連合国における中華民国、そして日本に対する世論に大きく影響を与えた。
また1943年11月には、蒋介石ルーズベルト、イギリスのウィンストン・チャーチルがエジプトのカイロに集まって戦後の対日処理を決めたカイロ会談にも蒋介石とともに同席し、蒋介石の通訳を務めた。
【エピソード】
1938年1月5日付でアメリカの友人宛に手紙を書き送っている。その中に、当時、南京から脱出していた宋美齢によって書かれた、「上海-南京間」での大日本帝国軍の行状に関する記述が在る。
・「彼らは上海と南京の間で五体満足な男性すべてを一人ずつ、あるいは束にまとめて射殺しているのです。わずかに生き残った五体満足な男は、日本軍の使役を強制されています。南京において彼らは冷酷にも何千人も屠殺いたしました」と、友人に訴えている。

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『宋姉妹―中国を支配した華麗なる一族 伊藤純、伊藤真/著 角川文庫 1998年発行
美齢、アメリカを席捲 (一部抜粋しています)
美齢が公の場に姿を現したのは翌1943年2月のことである。ニューヨークから特別列車でワシントンに到着した美齢は、駅頭でルーズベルト夫人の出迎えを受け、ただちにルーズベルト大統領のリムジンに乗り込むと、ホワイトハウスへ向かった。この様子はニュースフィルムにおさめられ、美齢の晴姿がアメリカ中に伝えられた。全米を席捲することになる美齢のアメリカ横断ツアーの始まりであった。
ホワイトハウスのゲストとなった美齢は、まずアメリカ議会における演説で訪米公式日程の幕を開けた。美齢は演壇に立つと、堂々とした英語で述べた。
「今まさに、アメリカ合衆国の代表である皆さんは、貴国の先人たちが示したパイオニア精神を受け継ぐという、栄光に満ちた責務を果たす機会を眼前にしています。そして、中国はあなた方はじめ諸国民と協力する用意と熱意を持っています。傲慢な隣人が再び私たちの子孫を血塗られた運命に突き落とすことがないように、理性的で進歩的な世界のための真に永続的な基礎を築こうではありませんか」
議場には万雷の拍手が鳴り響き、議員たちは一斉に立ち上がると、いつまでも美齢にスタンディング・オベーションを送りつづけた。議場を出た一人の議員はすすり泣かんばかりにして述べた。「こんな感動は初めてだ。蒋介石夫人のおかげで大声で泣き出したいくらいだ」
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治療を別にすれば、美齢の訪米の最大の目的は、世論を中国に有利な方向に導き、アメリカからよりいっそうの対中援助を引き出すことだった。しかし、美齢は一度として哀れみを請うような言動を示さなかった。訪米に先立って美齢がウエルズレイ大学の学友に書き送ったように、「訪米が物乞いの旅だという印象を与えることだけはどうしても避けたい」との強い思いがあった。このため、美齢の演説はつねにアメリカ国民の良心を問い、ときには中国の苦しみに対する無知と無関心を責めるようであったし、中国人と西洋人があくまでも対等であることをことさら印象づけようとするかのようであった。
アメリカ中が美齢の姿に熱狂していたころ、政府上層部には美齢に対する反感が募りはじめていた。ルーズベルトの側近の一人であったラフリン・カリーは、重慶駐在外交官のジョン・ビンセントにあてて、美齢の評判が悪くなりつつあることを書き送っている。美齢の演説はわざわざ難しい言葉を使って古今東西の逸話を引用し、自分の博学をひけらかすばかりで内容がなく、カリーの周囲にいた政府関係者たちは美齢の講演旅行にいい加減いらついているというのである。
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しかし、美齢の一面について、噂話や皮肉混じりの記事が出回ったとしても、美齢に対する否定的な論調はけっして主流にはならなかった。なぜならアメリカ政府と大半のマスコミは、あくまで美齢を救国の天使として描きつづけたからである。訪米中の美齢に対する熱狂は、理想と信念に裏打ちされた毅然とした態度や、流暢な英語とエキゾチックな美貌など、確かに美齢の資質に負うところが大きかった。しかし一方で、マスコミや政府が、美齢のわがままや尊大さに目をつむってでも、「中国を救う悲劇のヒロイン」といったイメージを意図的に形成しようとしていたことも見逃せない。
その急尖峰の一人が「タイム」および「ライフ」の両誌を発行していたヘンリー・ルースだった。蒋介石夫婦を、中国を救うキリスト教の戦士になぞらえていたルースは、ばらばらだった民間の中国支援団体を統合して中国救済連盟を結成し、義援金の募集の中核とするなど紙面の外でも蒋介石支援を推し進めた。そして美齢の訪米にあたっては、ルースは全米各地の歓迎式典や講演会の組織に心血を注ぎ、「ライフ」ではその様子を大きく報道し、「タイム」の表紙を美齢の肖像で飾ったのである。

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