じじぃの「テレビの普及・初の国民車・スバル360・I Love My Subaru!昭和30年代とは」

昭和30年頃のテレビ映像(力道山etc) 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=Q_5JlpU3LSA
日本初のマイカー てんとう虫 町をゆく 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=tk37yh-GD6A
I Love My Subaru!!!.avi 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=lmsw618ttNU
2013年のスバル米国新車販売、26%増の42万台超え…5年連続の記録更新 2014年01月06日 レスポンス
スバルの米国新車販売が前年実績を上回ったのは、5年連続。スバルオブアメリカのトーマスJ・ドール社長兼COOは、「我々は再度力強い結果を出せたことを喜んでいる。2013年は5年連続での販売記録更新。2014年はさらなる新商品を投入し、販売増を目指す」と述べている。
http://response.jp/article/2014/01/06/214172.html
「安全な車」ホンダが首位、米調査 22車中日本車が16車種 2013.12.20 SankeiBiz
自動車保険業界団体の高速道路安全保険協会(IIHS)は19日、米国市場向けの2014年型の乗用車などについて、安全性で最高評価である「トップセーフティーピックプラス」の基準を22車種が満たし、うち16車種を日本メーカーが占めたと発表した。メーカー別でも6車種が入ったホンダが首位になり、日本勢の健闘が目立った。
衝突した場合の運転手らへの影響や車体強度などをテストしたほか、衝突事故を避ける技術も評価した。日本メーカーが多く入ったのは、富士重工業が自動ブレーキで衝突事故を防ぐシステム「アイサイト」を導入するなど衝突回避技術にも力を入れていることが寄与したため。
http://www.sankeibiz.jp/business/news/131220/bsa1312200924002-n1.htm
スバル・360 ウィキペディアWikipedia)より
スバル360は、富士重工業(スバル)が開発した軽自動車である。1958年から1970年までのべ12年間に渡り、約39万2,000台が生産された。
富士重工業
富士重工業の前身で、旧・中島飛行機を前身とする富士産業は、群馬県太田市の呑竜工場と、東京都下の三鷹工場において、1946年からスクーター「ラビット」を生産し、実績を上げていた。また、群馬県の伊勢崎工場では1947年から軽量なバスボディの製作で好成績を収め、1949年にはアメリカ製のバスに倣った、フレームレスモノコック構造(応力外皮構造)のリアエンジンバスを、日本で初めて開発している。何れも、航空機メーカーとしてのエンジン技術や金属モノコック構造設計に関する素地があっての成功であった。

                          • -

『昭和30年代の「意外」な真実』 武田知弘/著 だいわ文庫 2013年発行
庶民の生活は便利でインスタントに (一部抜粋しています)
昭和30年代(1955〜1964)に、日本人の生活の中で、最も変わった部分はどこだろうか?
見方によっては、いろんな答えが出ると思われる。だが、最も一般的な答えとしては「テレビ」だといえる。
何せ、昭和30年(1955)には0.9%だったテレビ普及率は、昭和39年(1964)には83.0%になっているのだ。ほとんどの世帯が、昭和30年代にテレビを入手していたということである。つまり、昭和30年代の家庭は、テレビのない世界からテレビのある世界に代わったのである。
      ・
家電が普及する中で、各家庭に自家用車が見られるようになったのも、昭和30年代である。
戦後の日本では、まだまだ自動車は高価なものであった。しかし、各自動車メーカーは、研究を重ね、庶民の手が届く価格での自動車の開発を進めていた。
そして、昭和30年代にマイカー時代が到来する。この当時の日本では、官民あげて自動車の普及を推進しようとしていた。
昭和30年に、通商産業省(現在の経済産業省)は「国民車構想」を打ち出した。
国民車構想とは、国が国民が購入できるくらいの安価な自動車を、各自動車メーカーに働きかけてつくろうという構想である。もちろん、性能は一定の基準をクリアしなければならない。安全で安い国民の車ということである。
そのモチーフとなったのは、ドイツのフォルクスワーゲンである。フォルクスワーゲンは、戦前のドイツが、安くて安全な国民の車をつくろうと計画し、国が出資して製造された自動車だ。
残念ながら、戦争によりこの計画は中断され、実現には至らなかった。しかし、ほぼ完成していたため、戦後フォルクスワーゲンは、ドイツの自動車産業を支える車種となった。
      ・
当時、最も「国民車」というにふさわしい車は、スバル360だといえる。スバル360は、富士重工が昭和33年に発表した軽自動車である。
それまでの日本の軽自動車は、オートバイのエンジンを無理やりくっつけたような車ばかりで、大人が3人乗れば走行が不安定になることが多かった。
だから、軽自動車は、まだ世間から自動車として認識されていないような状態だったのである。
しかし、スバル360は、大人が4人乗っても80キロ出せるという、当時としてはかなり高性能な車だった。しかも値段は、普通車の約半額の42万円程度だった。それでも高価なものには違いないが、庶民でも手が出せなくはない。日本で最初に登場した本格的な軽自動車といえる。
げんざい、日本の軽自動車は、世界一といえるほどの高い性能を誇っているが、その萌芽はこのスバル360にあったのである。

                          • -

どうでもいい、じじぃの日記。
ぼけっと、武田知弘著『昭和30年代の「意外」な真実』を見ていたら、「スバル360」が出てきた。
「当時、最も『国民車』というにふさわしい車は、スバル360だといえる。スバル360は、富士重工が昭和33年に発表した軽自動車である」
日本初の国民車はスバル360なのか。
アメリカでは日本車は、もっとも「安全な車」という評価されているのだそうだ。
Subaru」で検索したら、アメリカ人の投稿した「I Love My Subaru!!」というのがあった。
アメリカ人にこんなに愛されているスバル。じじぃも乗ってみたい。
話は変わりますが、速報です ↓
フィギュアスケート男子SPで、羽生結弦選手が101.45の世界最高得点で首位に立った。