じじぃの「人の死にざま_1274_A・エディントン」

100 Greatest Scientist... : Arthur Stanley Eddington- Greatest Scientists - Preschool - Animated Videos For Kids 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=EeyYwx0jyEc
日食 一般相対性理論によると・・・

アーサー・エディントン ウィキペディアWikipedia)より
サー・アーサー・スタンレー・エディントン(Sir Arthur Stanley Eddington、1882年12月28日 - 1944年11月22日)はイギリスの天文学者。満61歳没。
【生涯】
戦後、エディントンはアフリカのプリンシペ島に遠征して1919年5月29日の日食を観測した。この日食の間、彼は太陽の近くに見える恒星の写真を撮影した。一般相対性理論によれば、遠くの恒星から観測者に達する光線が太陽の近くを通る場合、太陽の重力場によって光線が曲げられるため、本来の位置からわずかにずれて見えるはずである。しかし、日中の地球上からの観測では太陽の光による空の明るさで恒星の光は紛れてしまうため、この現象を捉えるには皆既日食の時に観測する必要があった。また、特殊相対性理論に基づく光子の質量にニュートン力学重力場での効果を考慮した際のずれの予測値は一般相対論での値の半分になるため、定量的な測定も必要とされた。
エディントンの観測結果は一般相対性理論の予測を裏付けるものであった。この結果は当時、一般相対論がニュートン力学のモデルよりも正しいことを結論付ける証拠として歓迎された。

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アーサー・エディントンが、光を曲げる予測を確認した。 Time-AZ
王立グリニッジ 天文台に務めていたイギリスの天体物理学者アーサー・エディントン(Arthur Eddingto/1882 - 1944)によって、アルベルト・アインシュタイン(Albert Einstein/1879 - 1955)の光を曲げる予測を確認した。
http://time-az.com/main/detail/3026
『物理学天才列伝 下』 ウィリアム・H・クロッパー/著 水谷淳/翻訳 ブルーバックス 2009年発行
理想的な学者 スブラマニアン・チャンドラセカール (一部抜粋しています)
星の道化
チャンドラの人生は、別の面でも変わろうとしていた。ケンブリッジ滞在中ずっと考えていたのは、恒星の進化と、自らが導いた奇妙な結論、つまり、大質量の恒星は当時の人々が当然と考えていた白色矮星としては一生を終えられない、という結論だった。チャンドラはこの理論に関する短い論文を書き、(天文物理学紀要)(のちにチャンドラが編集者となる)で発表した。ミルンはこの論文の鍵となるいくつかの近似に異議を唱え、チャンドラに白色矮星の正確な理論を編み出すようけしかける。その研究に取りかかったのは、特別研究員になってからの1934年のことだった。この研究にアーサー・エディントンは興味を持った。チャンドラは次のように回想している。「研究の日々の進捗にエディントンがとても興味を示した。1台だけ使える計算機も貸してくれた。10月から12月まで3ヵ月間、私の部屋にに週に少なくとも1度、ときには2度か3度やってきた」
1934年末までには正確な理論が完成し、チャンドラはその要約をロンドン王立天文学協会の大会で発表することにした。大会のプログラムを見ると、自分の論文のすぐ次にエディントンが、『相対論的縮退』というタイトルで講演をすることになっていた(相対論的縮退とは、チャンドラの理論において白色矮星の質量限界を導く条件を意味する)。ずっとのちにチャンドラは、次のように振り返っている。「本当に腹が立った。エディントンはほぼ毎日私のところへ来ていながら、自分が論文を発表することなど決して言わなかった」。大会前のティーパーティーの席、チャンドラが友人のウイリアム・マクリアと話をしていると、エディントンが加わってきた。マクリアが「エディントン教授、『相対論的縮退』というのはどう理解すればいいのですか?」と尋ねると、エディントンはチャンドラを見て「君を驚かせるものだよ」と答え、立ち去っていった。
チャンドラは論文を発表し、ミルンが短いコメントを付け加えた。続いて紹介されたエディントンは、いつもの皮肉めいた冗談に続き、すぐに核心に入った。「この大会がら生きて出られるかどうか分かりませんが、私の論文の要点は、相対論的縮退など存在しないことです!」。そしてチャンドラの主張を次のように総括した。「ある限界Mより重い恒星は完全気体状態に留まり、決して冷えることはない。この恒星は放射と収縮を続け、直径数キロメートルに達すると重力が強くなりすぎて放射が抑制され、ようやく安らぎを見いだす。以上がチャンドラセカール博士の主張です」
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チャンドラは自分の正しさに疑いを抱いていなかったが、本当に欲しいもの、つまりボーア、ディラック、パウリといった物理学界の権威たちからの正式な支持表明は得られなかった。個人的には支持の言葉をかけてくれたが、公の議論ではエディントンとやり合ってはくれなかった。チャンドラはワリに次のように語っている。「誰もが身をよせるような凄まじい影響力をエディントンのような人物が持っているのは、まったく驚くべきことだ。また天文学の枠の中で、十分な体探査と理解力を持ち、表に出てエディントンは間違っていると声を上げる人がいないというのも、信じられない事実だ。天文学の文献を端から端まで見ても、エディントンは間違っていたなどという文は一つも見つからないだろう。それどころか、私が白色矮星の研究で天文学の賞をもらっていないのも、偶然とは思えない」。科学の社会における苦い教訓だった。「それがしきたりだった」とチャンドラは言っている。
こうして白色矮星の理論で引導を渡されたチャンドラには、すっかりあきらめて別の分野へ転向するしか道はなかった。チャンドラセカールの質量限界が天文学者に広く受け入れられるのは、およそ30年後のことになる。しかしこの出来事は、チャンドラに驚くべき恩恵をもたらした。新たな分野を定期的に変えるのが自分には合っていることに、チャンドラは気づいた。エディントンが白色矮星の質量限界を執拗に否定してくれたおかげで、科学研究に対する独自の「生と死」というやり方を見いだしたのだった。

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