じじぃの「人の生きざま_334_河島・喜好」

河島喜好さん死去 ホンダ2代目社長、宗一郎氏の右腕 2013年11月6日 朝日新聞デジタル
ホンダ創業者の本田宗一郎氏の後を継いで2代目社長となり、世界的なメーカーに同社を成長させた、元ホンダ社長の河島喜好(かわしま・きよし)さんが10月31日、肺炎で死去した。85歳。
http://www.asahi.com/articles/TKY201311060428.html
河島喜好 - あのひと検索 SPYSEE
http://spysee.jp/%E6%B2%B3%E5%B3%B6%E5%96%9C%E5%A5%BD/1019316
MY HONDA DREAM 250 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=LBlDcUnsXvE
河島喜好氏、マン島TTレース参加について語る 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=YwVP5hDqP88
河島喜好 ウィキペディアWikipedia)より
河島喜好(1928年 - 2013年10月31日)は、自動車エンジニア、実業家。元本田技研工業代表取締役社長。日本楽器製造(現ヤマハ)社長、ダイエー副社長を歴任した河島博は実弟
【経歴】
1973年10月に本田宗一郎の後を受け、45歳の若さで本田技研工業代表取締役社長に就任。7人の候補がいた中で、宗一郎本人が河島を後継者として指名した。川島喜八郎、西田通弘らとのトロイカ体制で経営を担い、在任中は一時的に軽自動車市場から撤退する一方で、アメリカ・オハイオ州現地生産工場を開設、欧州ではブリティッシュ・レイランド(後のローバー)と提携を結ぶなどした。またヤマハ発動機との激しい二輪車の販売シェア争い(HY戦争)においても陣頭指揮を執った。

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文藝春秋 2014年1月号
蓋棺録 「河島喜好(かわしまきよし)」 (一部抜粋しています)
本田技術研究所社長・河島喜好は、草成期の本田技術研究所に入り、エンジンの設計を担当し、技研社長時代に米国の現地生産を推進した。
1947(昭和22)年、浜松工業専門学校(現・静岡大学工学部)の卒業も間近となったころ、「本田宗一郎が図面の引ける人間を探している」と聞いて、本田の自宅を訪ねた。炬燵に入って話をしているうちに「明日から来いよ」といわれて入社する。
入った当初は使い走りや旋盤工の手伝いをやらされ、給料も遅配が続いた。1年ほどすると原付自転車用のエンジン設計を任せられ、52年に本社を東京に移したころには、オートバイ「ドリーム号」の開発を進めていた。
28年、浜松市に生まれる。父は医局員で母は看護婦だった。弟の博は後に日本楽器の社長となり、オートバイではライバルとなる。
河島の人生は本田技研工業の発展そのものだった。60年、研究開発を担当する本田技術研究所の取締役、65年、技研常務、70年、専務、71年研究所社長。そして73年、本田と副社長・藤沢武夫の退任を受けて45歳で本田技研社長に就任。「昇進など意識したことはなく、本田の無理難題をこなしてきただけでした」。
79年、アメリカのオハイオ州にオートバイの工場を完成させ、3年後には自動車の工場を立ち上げて、アメリカ戦略の基をつくる。日本の自動車メーカーとしては初めての試みだった。「調査は綿密にやりました」。
仕事のかたわら趣味にも熱心で、ゴルフはもとよりハンティングと釣りを愛した。

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