中坊公平氏が死去 元日弁連会長 2013/5/5 日本経済新聞
森永ヒ素ミルク中毒や豊田商事の被害者救済に弁護団長、破産管財人として尽力し、日本弁護士連合会会長や整理回収機構社長を務めた中坊公平(なかぼう・こうへい)氏が3日、心不全のため、京都市内の病院で死去した。83歳だった。告別式は親族のみで行った。喪主は妻、淳子さん。
http://www.nikkei.com/article/DGXNASDG0502X_V00C13A5CC1000/
中坊公平 - あのひと検索 SPYSEE
http://spysee.jp/%E4%B8%AD%E5%9D%8A%E5%85%AC%E5%B9%B3/24249
"市民派弁護士"中坊公平さん死去 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=vbsts8B2KE4
「悪から金を取り戻せ」〜豊田商事事件・中坊公平チームの闘い ―男たちの飽くなき闘い (プロジェクトX〜挑戦者たち〜) 読書メーター
http://book.akahoshitakuya.com/b/B008YOHSYK
中坊公平 ウィキペディア(Wikipedia)より
中坊公平(1929年8月2日 - 2013年5月3日)は、日本の元弁護士(廃業前は大阪弁護士会に所属)。元日弁連会長。新しい日本をつくる国民会議(21世紀臨調)特別顧問。
森永ヒ素ミルク中毒や豊田商事の被害者救済に弁護団長、破産管財人として尽力し、日本弁護士連合会会長や整理回収機構社長を務めた。 1999年に設置された司法制度改革審議会において委員として参加し、法科大学院や裁判員制度の導入に深く関与した。「平成の鬼平」と呼ばれたが、住宅金融債権管理機構の債権回収で不適切な回収が行われたことが公になり、この責任をとる形で弁護士を廃業した。
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『文藝春秋』 2013年7月号
蓋棺録 「中坊公平(なかぼうこうへい)」 (一部抜粋しています)
元弁護士・中坊公平は、人権は弁護士として名をあげ、整理回収機構の社長に就任するが、後に違法な債権回収が発覚し、弁護士も廃業に追い込まれた。
1996(平成8)年、住専の債権回収を担う住宅金融債権管理機構(現・整理回収機構)の社長に推される。マスコミは不良債権問題を解決するヒーローのようにもてはやし「中坊ブーム」が起きる。低迷していた民主党は首相候補を打診した。
29(昭和4)年、京都に生まれる。父は弁護士で家庭も裕福だが、体が小さく弱視で「いじめられっ子」だった。あるとき、体の大きないじめっ子の腕に噛みつき、生まれて初めての「勝利」を得る。「私にはあれ以来、妙な自信ができた」。
公立の旧制中学試験に落ちて、同志社中学に入るが、戦後、学制が変わるさい、父親の入れ知恵で制度の隙間をぬって、試験が楽な京都帝国大学法学部に合格する。
在学中に一度司法試験を受けて失敗。卒業してから二度挑戦しなおして、25歳で合格。ある法律事務所の「イソ弁」となるが、収入は多かったので毎夜遊び歩いた。「あのころの私は、やはり人生のまじめさを欠いていた」。
結婚を機に生活を変え、独立して事務所を開く。ところが、さっぱり仕事が来なかった。転機になったのは、京都駅近くの小売市場立ち退き問題で、国鉄と家主だけで店子の立ち退きを決めていた。
店主たちに弁護を頼まれた中坊は、店主の妻たちに座り込みをさせて工事を実力阻止した。配ったチラシが名誉棄損となり苦境に陥ったが、国鉄が家主を頻繁に接待した証拠をつかみ、一転して中坊たちが優位となる。この頃から評価が高まり、中坊は「何をするかわからない」といわれるようになった。
一般にも名前が知られるようになるのは、73年、森永ヒ素ミルク中毒事件の被害者弁護団長を引き受けたときだった。もともと左翼系の弁護士たちが弁護団をつくっていたが、中坊の力を借りたいといってきた。
中坊は「やめておけ」といわれるのを見越して父親に相談した。ところが、意外にも「右とか左で判断するような人間に育てた覚えはない」というので、団長を引き受けることになってしまう。
その後も、詐欺行為で破産した豊田商事の管財人や公害問題調停の弁護団長など、他の弁護士が嫌がる案件を引き受けて、「人権派」「弱者の味方」といわれるようになる。
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99年4月、整理回収機構ができたときにも社長に就任。熱いマスコミの支持を受けつつ債権の回収を進めたが、思うような成果がでないまま、同年8月、顧問に退いた。翌年、小渕恵三政権の内閣特別顧問に任命されている。
住宅金融債権者管理機構での違法な債権回収が露見したのは同年末だった。中坊は監督責任にけじめをつける形で顧問を辞任したが、問題の案件は社長直轄で、後で弁護士も廃業したため、「司法取引」といわれた。