じじぃの「人の生きざま_283_白鵬・翔」

白鵬 - あのひと検索 SPYSEE
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朝青龍vs白鵬 動画 YouTube
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白鵬、黙祷で大鵬さんに優勝捧げる。2013/03/24 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=i48L3KSZyR8
白鵬 ウィキペディアWikipedia)より
白鵬 翔(はくほう しょう、1985年3月11日 - )は、モンゴル国ウランバートル市出身で宮城野部屋所属の現役大相撲力士、第69代横綱(2007年7月場所〜)。本名はムンフバティーン・ダワージャルガル(日本相撲協会の公式情報ではムンフバト・ダヴァジャルガル)、モンゴル語での愛称は「ダワー」。得意手は右四つ、寄り、上手投げ。身長193cm、体重155kg(2013年1月場所現在)、血液型はA型。好物は焼肉と納豆、嫌いなものはあんこ、趣味は読書、チェス、ビデオゲーム。既婚。
現在では、貴乃花および朝青龍とともに「平成の大横綱」の一人に数えられる。
【来歴】
父ジグジドゥ・ムンフバトはブフ(モンゴル相撲)で、5年連続6度の優勝をした元アヴァルガ(大相撲の横綱に相当)で、メキシコ五輪レスリング重量級銀メダリスト(モンゴル初の五輪メダリスト)となったモンゴル国の国民的英雄である。母は元外科医である。来日前にブフは10 - 12歳の時に遊びでやっていた程度で経験らしい経験はなく、バスケットボールに熱心に取り組んでいた。
3月場所前の2007年2月に当時学習院大学に在籍中の学生であった徳島県徳島市出身の和田紗代子と結婚。このとき夫人は第1子を身ごもっており、同年5月10日に第1子(長女)が誕生した。義父は実業家で、元朝青龍全国後援会長の和田友良。

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『 逃げない―13人のプロの生き方』 小松成美/著 産経新聞出版 2012年発行
白鵬 (一部抜粋しています)
2011年3月11日、その日、白鵬翔は、26回目の誕生日を迎えた。
「家族と親しい者だけで、小さな誕生会をすることになっていたんですよ」
朝稽古をして、午後2時過ぎに自宅に戻った白鵬は、家族と会食までの時間を過ごしていた。そして、間もなくあの時を迎える。
午後2時46分、金属の軋む音が聞こえたと思うと、タワーマンションの44階にある部屋は激しく揺れ始めた。しなり、うねる高層の鉄の塊の中では立っていることもままならない。妻と幼い3人の子の名を呼び、抱き寄せることしかできなかった。
数分を過ぎても収まらない大きな地震に、それまで感じたことのない恐れが兆(きざ)した。
「母国のモンゴルには地震はないんです。来日してから度々地震はありましたが、これほどの揺れを経験したことはなかった。ああ、これで終わりなんだろうか、と、そういう気持ちになりました」
ようやく揺れが弱まる頃、テレビをつけると都内の震度は「5」だと伝えられていた。幸い家族にけがはなく、室内に破損もなかった。町や他のビルはどうなっているかとカーテンを開け、辺りを見渡した。視界の中には、ビルの崩壊や火災も見当たらなかった。
大事には至らなかった。そんな安堵が暗転するのはその直後だった。多くの日本人と同様に、テレビがリアルタイムに報じる東北の甚大な被害を、彼もまた刻一刻と目の当たりにするのである。
「岩手も宮城も福島も、夏巡業で訪れるなじみの深い場所。8月の巡業は、北海道を皮切りに東北を北から回るんです。訪ねた町や、そこに住む人たちがどうなってしまったのか、それだけを思いながら、ニュースを見ていました」
タワーマンションの電源が落ち、エレベーターが停止して部屋から出ることができなかった2日間、白鵬は、壮絶な震災と津波被害の光景を、その目に焼きつけることになった。
今、自分にできるこちは何なのか、数日後、稽古を再開した白鵬は、自ら被災地へ行き、被災者を見舞いたいと強く願った。相撲協会にも直ちにそう申し出た。
とにかく現地に入って、自分の手で物質を届けたかった。生んでくれたのは違う国でも、日本は10年以上も育(はぐく)んでくれた国ですからね。その恩を忘れることなど、あってはならないと思いました」
震災からおよそ1ヵ月後の4月9日、物資とともにトラックでやって北着物姿の横綱をみて、避難所には晴れやかな歓声が上がった。観光大使を務める鹿児島県霧島市の水1万リットルとカップ麺1万色を、自らの手で福島県の石川町と平田村にある避難所に届けたのだ。
「自宅や親族を失った人たちが、笑顔で出迎えてくれました。避難所の外にござを敷いてね、一緒に相撲を取った。楽しい時間を過ごさせてもらいました」
福島県には、地震津波に加え、福島第一原発事故による放射線被曝という緊張が満ちていた。
震災から数日もすると日本に滞在する外国人のスポーツ選手や指導者が安全な自国へと帰国した。大震災の被害と放射性物質による汚染の可能性を考えれば、帰国は当然の手段だった。が、白鵬にはそれに反する強い気持ちがあった。
「どんな状況でも、”自分の国”から逃げることなんかできないでしょう。角界では1人も日本を離れることがなかった。それが本当に誇らしかった」
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横綱にはその地位にある者だけが使える印鑑が与えられる。
「書面にその印をつくたびに『宿命』を思い、責任の重さを確かめているようでしたよ」
角界を牽引するのは白鵬朝青龍、2人のモンゴル人横綱。土俵を格闘の場として暴れ回る朝青龍と、双葉山の見据えた相撲道を追い求める白鵬との一番は、どの場所でも観客を虜(とりこ)にした。
「優勝することは、すなわち朝青龍を倒すこと。毎場所、そのことを自分に言い聞かせていました」
2008年5月の夏場所の千秋楽には、朝青龍に引き落とされて負けた白鵬が横から駄目押しした朝青龍に右肩をぶつけ睨(にら)み合う場面が反響を呼んだ。プライドを賭けた一戦は、白鵬の清爽(せいそう)な心をときにかき乱した。
「あんなにも闘志をかき立てられる相手は、もう2度と出会えないと思います。朝青龍は、それほど強く闘争心にあふれていた」
しかし、青白時代はあっけなく終焉(しゅうえん)を迎える。2010年1月、場所中に酒に酔った朝青龍が暴行事件を起こし、その責任を問われて直後の2月4日に日本相撲協会で事情聴取を受けた後、突然、現役引退を表明したのだ。
その報を受けた白鵬は、会見に応じ、「信じられない。朝青龍関はきっとやり残したことがあると思う」と言い、記者の前であることも憚(はばか)らず大粒の涙を流した。
横綱になってから、2人が言葉を交わすことはなかった。もちろん、最も対抗心を煽(あお)られる相手でしたよ。しかし、朝青龍関は、横綱の孤独と責任を分かち合える唯一の人でした。その人が去っていく淋しさは、言葉にできなかった。今でも、ふと、横綱であった朝青龍関が恋しいと思おうことがあります」
2010年3月の春場所以降、たった1人で最高位の重圧を背負った白鵬は寡黙(かもく)になり、勝負への探求心を膨張させていった。1人横綱として課せられた使命を果たすため、連勝記録に対峙したのだ。

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