じじぃの「人の死にざま_1198_中島・今朝吾」

中島今朝吾 - あのひと検索 SPYSEE
http://spysee.jp/%E4%B8%AD%E5%B3%B6%E4%BB%8A%E6%9C%9D%E5%90%BE/69808
Rape of Nanking Part I Atrocities in Asia Nanjing Massacre 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=YoW2WYdOsvg
日本兵が記録した南京大虐殺 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=Qyw6esAMz9g
中国人生き埋め公開処刑を見物する日本兵(1938年) 画像
http://kaizaemon.com/DLP/N3.JPG
本多勝一元記者が、「南京大虐殺」写真の捏造認める! 2014年10月30日 JAPAN+
かつて朝日新聞のスター記者だった本多勝一氏が、日本軍による虐殺の証拠として使ってきた写真が、実は捏造であったことを、本多氏自身が初めて認めました。
問題の写真は、本多勝一氏の『中国の日本軍』に掲載されたもので、日本兵が中国の婦女子をかり集めてこれから虐殺するところであるとの説明がなされています。
http://japan-plus.net/182/
朝日新聞慰安婦記事取り消し、朝鮮日報が報道 2014年8月8日 YOMIURI ONLINE
韓国で最大の発行部数を持つ有力紙・朝鮮日報は7日、済州島で女性を慰安婦にするため強制連行したとする吉田清治氏の証言は虚偽だったと朝日新聞が認め、1982年の記事を取り消したと報じた。
http://www.yomiuri.co.jp/world/20140807-OYT1T50138.html
中島今朝吾 ウィキペディアWikipedia)より
中島 今朝吾(なかしま けさご、1881年6月15日 - 1945年10月28日)は、日本の陸軍軍人。第16師団師団長、第4軍司令官、階級は陸軍中将。
【略歴】
大分県宇佐市下乙女出身。1896年5月、旧制私立海軍予備校を経て東京陸軍地方幼年学校第1期に入学。1903年陸軍士官学校(15期)を卒業し、日露戦争に従軍。
1936年3月に中将昇進。1937年8月に第16師団長となり、第二次上海事変では河北省に進軍し、上海陥落後には南京攻略戦と武漢作戦に参加。1938年7月には第4軍司令官を歴任し、1939年9月に予備役。終戦直後の1945年10月に病死。
第16師団長として南京攻略戦に参加した時の日記には、本攻略戦において捕虜を取らない方針であること、捕虜を日本刀の試し斬りに使ったこと、捕虜を一ヵ所にまとめて「処理する予定」との記述がある。南京大虐殺肯定派はこの「処理」を処刑と解釈し、本攻略戦における中国兵捕虜の違法処刑が事実であることを証明する証拠の1つとしているが、否定派には「処理」をただちに処刑と解釈するのは誤りであり、これは武装解除と解釈するのが適当であるとの主張もある。
百人斬り競争 ウィキペディアWikipedia)より
百人斬り競争とは、日中戦争支那事変)初期の南京攻略戦時に、日本軍将校2人が日本刀でどちらが早く100人を斬るかを競ったとされる行為である。
【論争】
1971年、本多勝一朝日新聞に連載していたルポルタージュ『中国の旅』(のちに単行本化)でこの事件を取り上げた。このとき、本多は両少尉をA少尉、B少尉と匿名で表現した。これに対してイザヤ・ベンダサン山本七平)が「百人斬り競争は存在しない」と主張し、「なぜ両少尉を匿名にしたのか。実名を明らかにしていただきたい。この話は「伝説」なのでしょう。この二人は存在しないから実名が記せないのでしょう。」と批判した。これに対し本多が両少尉の実名入りの新聞記事や鈴木二郎記者、志々目彰の手稿(後述)を挙げ、「これでも伝説と主張しますか」と反論した。その後、鈴木明が「南京大虐殺まぼろし」を出版し、「百人斬りは事実でなかった」と主張した。のちに、山本は成瀬関次の著書「戦ふ日本刀」(1940)を引用して「日本刀で本当に斬れるのは3人が限界。だから百人斬りは嘘」と主張。秦郁彦はその山本の主張に対し、「1.無抵抗の捕虜を据えもの斬りすることを想定外としていること」「2.成瀬著から都合のよい部分だけを利用し、都合の悪い事例を無視していること」から『トリックないしミスリーディングといえよう』と評している。洞富雄も同様に山本七平と鈴木明を批判している。

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『隠された昭和史 天皇の陰謀』 デビッド・バーガミニ/著、いいだもも/訳 現代書林 1988年発行
南京大虐殺 (一部抜粋しています)
朝香宮は12月5日の日曜日に飛行機で東京を立ち、3日後、前線に指揮をとるために着いた。彼のパリ時代の古い仲間であるサディスティックな中島が、南京の約10マイル南東の、前進野戦司令部近くの、遺棄された中国人の田舎別荘にいるのに彼は出会った。中島は日曜日に左臀に負傷して痛がっていた。中島は彼の以前の保護者の宮に、日本軍が南京周辺のいたるところで中国軍を撃破し、約30万人の中国軍が包囲されようとしており、南京城壁にピン留めされようとしている、と報告した。和議の下交渉では彼等はすぐにも降伏する用意があるといわれていた。この要旨を聞いた後、朝香宮は枯野司令官から彼の個人的な押印による「秘、読後焼却のこと」と記された一連の命令を発した。命令は簡単に「すべての捕虜を殺せ」であった。中国軍将兵は態度の変化を感じ、南京城に向かって走った。少なくとも彼らの4分の3は生きて、他日戦うこととなる。残り7万5000人の将兵は後に南京で捕えられ、大虐殺の間市内で観察していた西洋人によって災害統計としてまとめられる材料の役をつとめることとなる。朝香宮の情報参謀将校である一中佐は、友人に対して、彼自身の発意で「殺せ」という命令に署名した、と主張した。もしそうだとしたならば、彼が軍法会議にかけられることもなく、少将として沖縄の洞窟において戦死した1945年の6月まで戦闘経歴を続けたということは、驚くべきことである。
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南京が日本軍の手に落ちて36時間たった、火曜日の朝遅く、東京憲兵隊長中島と彼の第16師団が水西門からトラックと武装した車で市内になだれこんだ。彼は最後の瞬間、約1万の服役囚を捕えるのに手間取った。夜通し彼の部下たちは服役囚を揚子江の縁に次々と引き立ててゆくのに忙しかった。彼らは指がすりむけてしまうまで機関銃の引金を押しつづけた。少なくとも6000人の服役者が殺された。次の日の昼のもの憂い平凡な光のなかで、中島の部下たちは、いま逃亡して軍服を脱いで消えてしまった中国軍将兵を探すために、南京市内で組織的捜索を開始した。皇叔の朝香宮からの命令は簡単明瞭であった。――すべての捕虜を殺せ。捕虜は30万人いたと思われるが、その1万強が殺された。蒋介石の顧問であるフオン・ファルケンハウゼン=ユンケル将軍は、彼のベルリンへの報告書のなかで、それ以後日本軍の「態度に完全な変化」が見られたと記している。
「日本軍は」と彼は書いた。「早い進軍のために不十分にしか補給されておらず、城内ではほとんど正規軍とはいえないくらいだらしなく振舞っていた」
憲兵中島は、朝香宮が彼に「公共の治安の維持」を委ねた任命書を懐仲にして南京にやってきた。それからというものは、公共の治安は滅茶苦茶に破壊された。中島とともに天皇の秘密の股肱(ここう)の一味である武藤章大佐がやってきた。彼は朝香宮によって「南京地域における日本軍の宿舎割りの責任」に任ぜらていた。それからというもの、部隊は自分自身の宿舎を発見することになった。武藤は、域外の屯営は不適当であると言い、全軍を域外の4地域すべてに誘い入れ、好きなところに宿泊するようにした。
武藤―中島機関を弁護するために、戦後の戦犯裁判で、中島は公共の治安を維持するために彼の助けとしてわずか14人の憲兵しか持っていなかった、ということが主張された。事実は彼がまさに東京の全憲兵の最高指揮から南京にやってきたということである。彼は幕僚将校たちを内地と行ったり来たりさせるのに使う飛行機を持っていた。そして西洋の観察者が見たところでは、南京で中島が擁していたこれらの憲兵たちは戦利品を分捕った上で、女性を強奪しに家の中へ入った兵隊たちを守るために立っていたということである。
武藤大佐は彼の裁判の時、同じ位馬鹿らしい釈明をして、シニカルな冗談を並べ立てた。彼は大揚子江の周辺に陣取った城外の部隊の屯営地は「水不足のために不適当」であったと陳弁したのだ。将兵たちの群れが城内に移動してきた時、彼らは水を煮沸したり濾過したりして大量に使ったのだが、その水は苦力たちによって揚子江から運ばれたのである。南京の市水道は12月9日の爆撃か砲撃かによって停まってしまっていた。損傷は軽微であったといわれる。武藤は第6師団の野戦防疫班ならびに第8師団の野戦工兵の一部に命令を下した。だが水は1月7日までは南京市内では復旧しなかった。その時までに日本軍はすでに3週間以上も市内にいたのである。
武藤、中島、朝香宮によって南京市内で軍規をゆるめられた8万余りの将兵たちは、放ったらかされておいても号監視、殺し、盗み、焼いたでであろう。実際の事件では、彼らの指図により行動したのである。彼らは酔っ払って無秩序になるように働いたのである。彼らは狂気に駆られた、しかもそれは組織的である。彼らの南京大虐殺は中島が城内に入った12月14日に始まった。それは6週間続いた。そして全世界の抗議にもかかわらず、近衛公が裕仁に対して蒋介石を失脚させる希望はもはやないことを認めるまでは、止まらなかったのである。

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