じじぃの「人の死にざま_1158_D・エッカート」

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ディートリヒ・エッカート ウィキペディアWikipedia)より
ディートリヒ・エッカート(Dietrich Eckart、1868年3月23日 - 1923年12月26日)は、ドイツのジャーナリスト、政治活動家国家社会主義ドイツ労働者党の初期主要メンバー。エッカートは、保守革命の思想家のアルトゥール・メラー・ファン・デン・ブルックの「Das Dritte Reich(第三帝国)」の語を初めて借用した。
エッカートは当初ミュンヘンで医学を志すが、1891年には詩人、脚本家、ジャーナリストとして働くために医学をあきらめる。1899年にベルリンに移り住み、多くの脚本を執筆した。
その他にも、反ユダヤ主義やナチズムについて書かれた著書を多数著しており、アドルフ・ヒトラーは、彼の著書をほとんど読破したという。エッカートは学識があり知識も豊富だったが、一方で麻薬や酒、ギャンブルに溺れていたという。 1918年ブリル協会を創立。 1923年11月9日にエッカートはヒトラーと共にミュンヘン一揆に参加した。一揆の失敗後彼は他のナチス党員と共に逮捕され、ランツベルク刑務所に収監されたが病気が理由ですぐに釈放された。彼は1923年12月26日にベルヒテスガーデンでモルヒネ中毒によって引き起こされた心臓発作で死去した。
ヒトラーは後に『我が闘争』の第一巻をエッカートに捧げた。

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『教科書では学べない 世界史のディープな人々』 鶴岡聡/著 中経出版 2012年発行
ヒトラーの師 「ドイツよ目覚めよ、目覚めよ!」 (一部抜粋しています)
「カントとゲーテの国において、いかにしてナチスの凱旋行進は可能であったのか」という問いは、第二次世界大戦後、今日にいたるまで問われ続けている。論理的な思考力に富み、勤勉で慎ましやかなドイツ人の姿は多くの人々の称賛の的だった。しかし、ドイツを担った教養市民層の伝統を受け継ぐ人々ではなく、「民族・人種」に絶対的な価値基準をおく、ナチズムの狂気になぜドイツ人は一時的に熱狂したのか。これは狂気の毒気をヒトラーに吹きかけた語られることのなかった男の話である。
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ヒトラーという人類にとって最も犯罪的な人物の人間形成に絶大な影響を与えたディートリヒ・エッカートは、1868年3月23日、のちにナチ党の党大会が開かれることになるニュルンべルグの南西30kmに位置するノイマルクトに生まれた。父親は王家の法律顧問をしていた厳格な人物であったが、息子もそれに輪をかけたような頑固者であった。
10歳で母を失い父親に育てられた彼は、ことごとく父と対立する。10代のかなり早い時期から酒場に入り浸っていた息子に激怒した父は、凍てつくような寒い夜に息子が外出できないように衣服をすべて取り上げてしまったが、息子はパンツとパジャマだけで酒場に出かけ、常連である自分の席に座って飲みはじめたという。
何ものにも制約されない自己実現などあろうはずがない。現実との折り合いがつかない彼は深酒とモルヒネに逃避する。
26歳の頃からバイロイト音楽部の批評を新聞に書けるようになり、数種の雑誌に発表の場を与えられてベルリンへ出た。父の死で多くの遺産を手に入れたが、放蕩生活にすべて使い尽くされ、結局、以後12年間、糊口をしのぐため地を這うような生活が続き、この貧窮の中で6つの戯曲を書き4篇が上演されたが、その評価は否定的なものばかりだった。
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1918年11月、エッカートはミュンヘンで敗戦(第一次世界大戦)を迎えたが、このころミュンヘンではアーリア(ドイツ)民族至上主義と反ユダヤ主義を掲げる過激な右翼団体トゥーレ協会が設立された。
この団体は「ゲルマン騎士団」と称する夢想的な右翼団体バイエルン支部としてルドルフ・フォン・ゼボッテンドルフ(鈎十字)と剣をデザインしたシンボルマークを用いた秘密結社で、人種主義に加えオカルト的教義をもっていた。
会員こそ少なかったが精神的な影響力は大きく、多くの右翼団体の中核的存在となり、会員にはナチスの初代党首アントン・ドレクスラーや、1923年11月のミュンヘン一揆失敗で投獄されたヒトラーの助手として彼の『我が闘争』の口述を筆記し、ナチ党の総統代理となったルドルフ・ヘス、ナチ党法律顧問でのちのポーランド総督となるハンス・フランク、ミュンヘン大学講師で地政学という新しい学問を講じていたカール・ハウスホーファーなどがいた。
1918年11月7日、ミュンヘンではアイスナーやランダウアーらを中心とする社会主義政権(ミュンヘン・レーテ共和国)が樹立された。
エッカートは革命に反対し、それを粉砕するための「秩序と正義のための週刊誌」と銘打たれた「ずばり直言」を発刊した。この週刊誌発刊にう尽力したのが25歳のゴットフリート・フェーダーであった。
フェーダーは間もなく極右政党「ドイツ労働者党」の幹部として網領を起草し、さらにこれにヒトラーが加わって「国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)」へと発展していく。
ミュンヘン・レーテ共和国はトゥーレ協会が中心となった「闘争同盟」や反共義勇軍(フラーコール)、さらに正規軍によって倒され、アイスナーは射殺された。
ロシア革命の指導者の多くがユダヤ人だったように、このユダヤ人が中心となったミュンヘン・レーテ共和国粉砕のためにエッカートは次のような激烈な詩を発表した。
「嵐、嵐、嵐、嵐、嵐、嵐! 塔から塔へと鐘鳴らせ!
 鐘鳴らして男も老人も若者も、眠っている者たちをみんな部屋から連れ出すのだ、
 鐘打ち鳴らして娘たちを階段から駆け降りさせ、鐘打ち鳴らして母たちを揺籃から引き離すのだ、空気はどもよしつんざく響きを立てねばならぬ、
 復讐の雷鳴の中で激しく、激しく荒れ狂わねばならぬ。
 鐘打ち鳴らして死者たちを墓穴から呼び起こせ! ドイツよ目覚めよ!」
 (『虚構のナチズム 「第三帝国」と表現文化』 池田浩士著/人文書院
この「ドイツよ目覚めよ」は、第三帝国時代を通じて至る所に貼られたなナチスの標語となった。この詩のできは別にしても「奴ら(ユダヤ人=共産主義者)が国を乗っ取りに来る」という強迫観念にも似た焦燥感に突き動かされて一気になぐり書きしたもので、エッカートには惰眠を貪っているとしか思えないドイツ人に揺さぶりをかけるねらいがあったのだ。
さらにエッカートがヒトラーのために大金をはたいて買収してやったナチ党の機関紙『フェルキッシャー・ベオバハター(民族の観察者)』の1923年4月20日号に、ヒトラーの34歳の誕生日を祝って、次のような詩を発表した。
「五年の苦難、いまだどの民族が耐えたことのないような!
 五年のぬかるみ、山をなす低劣さ!殲滅されてしまったのだ、われわれのためにビスマルクがかって戦い取った高潔な情熱と偉大さは!
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 その力はここにある、これを前にすれば夜も逃げ出すその力が!」(前掲書)
ここにはヒトラーこそがドイツを再生させることができるという強いメッセージが込められている。共産主義者によるドイツ革命が挫折したのち、雨後の筍のごとくドイツには無数の右翼団体が結成された。
しかし、ヒトラーはいかに演説に巧みだったとしても、それだけではナチスが政権党への道を歩むことは難しかったろう。エッカートの人脈と政治的直観、それに何よりもドイツの不幸の元凶たる唾棄すべきユダヤ人を絶滅できる実行力ある人物として、彼はヒトラーにかけたのだ。
1923年8月、ドイツのインフレは狂気の沙汰となった。エッカートにとってこの狂気はすべてユダヤ人に起因していた。ユダヤ人はドイツを食い物にする寄生虫なのだ。この憤怒の中で同年12月26日、モルヒネ中毒に起因する心臓発作でエッカートは死亡した。

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