じじぃの「人の死にざま_1155_飯沼・正明」

飯沼正明 - あのひと検索 SPYSEE
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飯沼飛行士記念館
http://www.h6.dion.ne.jp/~art-toyo/iinuma/iinuma.html
飯沼正明 ウィキペディアWikipedia)より
飯沼正明は日本のパイロット。1937年純国産機、神風号によって東京-ロンドン間の飛行に成功した。
長野県南安曇郡豊科町(現・安曇野市)に生まれた。所沢陸軍飛行学校を卒業後、朝日新聞社に入社した。1937年4月6日、塚越賢爾機関士とともに立川飛行場を出発し、94時間17分の飛行の後ロンドンに到着した(ヴィエンチャンカルカッタ、カラチ、バクダッド、アテネなどを中継)。15357kmの距離を飛行時間94時間17分56秒の飛行を行った。1937年、朝日賞などを受賞した。
1941年東京‐ニューヨーク間の記録に挑戦しようとするが、その矢先に真珠湾攻撃の報がもたらされ、絶句して色を失った飯沼は、プノンペンの飛行場の滑走路にふらふらと出て、軍用機のプロペラに挟まれ死亡。彼の死は戦死として発表され、「血染めの操縦桿」という美談が作られた。

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『人間臨終図巻 上巻』 山田風太郎著 徳間書店
飯沼正明(いいぬままさあき) (1912 - 1941) 29歳で死亡。 (一部抜粋しています)
日中戦争以前、飯沼正明は日本の若き英雄の1人であった。
昭和12年4月、朝日新聞によって企画された「亜欧連絡記録飛行」において。「神風機」の操縦士として起用された飯沼は、機関士塚越賢爾とペアで、世界ではじめて東京ーロンドン間を、94時17分56秒(実際飛行時間51時19分23秒)で飛ぶという新記録を樹立した。
飯沼は人間としても豪胆でさわやかで、日本の青年として最も良質の快男児で、かつ美青年であった。
4年後の昭和16年12月――陸軍の誇る最新鋭偵察機新司偵」のパイロットとして徴用されていた飯沼は、すでに幾度かマレー半島の敵基地を偵察していたが、開戦3日目の11日昼ごろ、仏印サイゴンからプノンペン基地に飛来した。
着陸して地上に下りた飯沼は、滑走路を横切って歩き出したが、どうしたのであろうか、いましも出撃しようとしていた陸軍航空隊の飛行機群に気がつかなかった。そして、轟音をあげて滑走して来た一番機のプロペラにひっかけられ、頭部と上半身を引き裂かれ惨死した。
翌年1月3日、陸軍航空隊本部は次のごとく発表した。
「陸軍技師飯沼正明(飛行士)は昭和16年12月11日北部マレー方面の作戦において某重要任務に服務中、敵弾をうけ、なおよく操縦を続行、辛うじて基地に帰還せるも、遂に壮絶なる戦死を遂げたり」
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当時の文部省は、この偽られた美談を、ただちに国定教科書「修身巻三」に使用した。このことに関するかぎり、むろん飯沼に罪はない。

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