じじぃの「人の死にざま_423_テグジュペリ」

サン=テグジュペリ - あのひと検索 SPYSEE
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星の王子さま 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=mcCI2l6OC6Y&feature=related
世界・わが心の旅 宮崎駿サンテグジュペリ 大空への夢」1/3 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=zG3zz_thF5Y
アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリ フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』 (一部抜粋しています)
アントワーヌ=ジャン=バティスト=マリー=ロジェ・ド・サン=テグジュペリは、フランスの作家、操縦士。郵便輸送のためのパイロットとして、欧州-南米間の飛行航路開拓などにも携わった。読者からは「サンテックス」の愛称で親しまれる。
【略歴】
リヨン生まれ。イエズス会ノートルダム・ド・サント・クロワ学院を経て、スイスのフリブールにある聖ヨハネ学院では文学にいそしむ。
1926年、26歳で作家として本格的にデビューし、寡作ながら以後、自分の飛行士としての体験に基づいた作品を発表。著作は世界中で読まれ、有名パイロットの仲間入りをしたが、仲間のパイロットの間では反感も強かった。後に敵となるドイツ空軍にも信奉者はおり、サン=テグジュペリが所属する部隊とは戦いたくないと語った兵士もいたという。
1939年9月4日、第2次世界大戦で召集され、トゥールーズで飛行教官を務めた。前線への転属を希望し、コネを使って多くの反対を押し切り実現。戦闘隊は希望せず、能力的にも無理だった。爆撃隊も忌避したので、1939年11月9日、オルコントに駐屯する偵察隊(II/33 部隊)に配属された。部隊は多大の損害を受けアルジェリアへ後退したが、ヴィシー政権がドイツと講和。動員解除でフランス本土へ戻った後、アメリカへ亡命。1940年12月21日リスボン出航。12月31日ニューヨーク着。
大戦中、亡命先のニューヨークから、自ら志願して再度の実戦勤務で北アフリカ戦線へ。原隊である II/33 部隊(偵察飛行隊)への復帰を1943年6月に果たす。新鋭機に対する訓練期間を経て実戦配置されたが、すぐに着陸失敗による機体破損事故を起こしたことで1943年8月に飛行禁止処分を受け、事実上の除隊となる。あれこれ必死に画策して復帰を果たした。爆撃機副操縦士としての着任命令(I/22部隊)を無視して、サルデーニャ島アルゲーロ基地に進出していた古巣のII/33部隊に1944年5月にもぐり込む。部隊は後にコルシカ島に進出。1944年7月31日、フランス内陸部グルノーブル、シャンベリー、アヌシーを写真偵察のため、ロッキードF-5B(P-38の偵察機型)を駆ってボルゴ飛行場から単機で出撃、地中海上空で行方不明となる。
星の王子さま 概要】
体裁は児童文学ながら、中身は、子供の心を失ってしまった大人に向けての示唆に富んでいる。「大切なものは、目に見えない」(内藤濯の訳。直訳は「本質は眼では見えない」)を始めとした本作の言葉は、生命とは、愛とはといった人生の重要な問題に答える指針として広く知られている。この作品の元になったと思われる、1935年のリビア砂漠での飛行機墜落事故の体験は、サン=テグジュペリによる随筆集『人間の土地』(新潮文庫、1998年版から宮崎駿の表紙イラストになった)で語られている。
初版以来、作者自身による挿絵が使われ、素朴な主人公や脇役の姿は作品とともに愛されている。
物語の前置きでは、この本を、フランスに住んでいて困難に陥っているあるおとなの人に捧げると述べられている。この献辞にある「おとなの人」「子どもだったころのレオン・ヴェルト」とは、作者の友人のジャーナリスト、レオン・ヴェルトを指している。当時は第二次世界大戦中で、ヴェルトはヨーロッパにおいてナチス・ドイツの弾圧対象となっていたユダヤ人であった。

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『人間臨終図巻 上巻』 山田風太郎著 徳間書店
サン=テグジュペリ (1900-1944) 44歳で死亡。 (一部抜粋しています)
もともと民間航空の飛行士であったテグジュペリは、第二次欧州大戦とともにフランス空軍にはいって戦ったが、フランス降伏後、アメリカに亡命し、1942年、ニューヨークで『星の王子さま』を書いた。
翌1943年、彼は連合軍の北アフリカ戦線に参加した。しかし貸与されたアメリカの新鋭機は、40歳を超えたテグジュペリには負担がかかり過ぎ、また荒々しいアメリカ軍の航空基地は、冒険好きな彼にも幻滅を与えずにはいなかった。またこの巨大な肉体を持った作家航空兵は、繊細な心を持つ反面、意外にもぶきっちょなところがあって、何度か着陸に失敗して貴重な飛行機を壊(こわ)し、アメリカ軍から厄介視された。
1944年7月、テグジュペリの飛行大隊はコルシカ島に進出し、7月31日朝、彼は双胴のP38ライトニング機で、航空写真偵察のためにボルゴ基地を発進した。
「裸馬(ドレス・ダウン)よりコルゲートへ、滑走離陸してよろしいか?」
と管制塔に問い返したのが、テグジュペリの地上に残した最後の言葉であった。彼は再び帰還しなかった。
彼の死については、ドイツ機に撃墜されたという説と、操縦を誤って墜落したという説があって、いまだに明らかでない。
遺稿『X・・・・将軍への手紙』の中で彼は書いている。
「・・・・いまP38に乗って飛行訓練を受けて来たところです。すばらしい飛行機です。20歳のころこの贈物が自由に使えたら、どんなにうれしかったでしょう。でも、世界の空を6500時間あまり飛び回って来て43歳を迎えた今日では、悲しいことですが、この遊びも、もうあまり歓びが見出されなくなったことを認めないわけにはゆきません。これは移動の道具−−ここでは戦争の道具にすぎません」

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