じじぃの「人の死にざま_580_F・ツェッペリン」

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ヒンデンブルク号爆発事故 動画 YouTube
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Hindenburg Colorized 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=q7Fc8kIyMCo&feature=related
フェルディナント・フォン・ツェッペリン フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』 (一部抜粋しています)
フェルディナント・アドルフ・ハインリッヒ・アウグスト・フォン・ツェッペリン伯爵はドイツの軍人(陸軍中将)であり、発明家・企業家。硬式飛行船を実用化した人物であり、「ツェッペリン」は幾つもの言語において「硬式飛行船」を意味する普通名詞となっている。
バーデン大公国のコンスタンツ(現ドイツ南部のバーデン=ヴュルテンベルク州)出身。
ツェッペリン伯爵は1853年にシュトゥットガルトの理工科学校を退学し、1855年にルートヴィヒスブルクの士官学校に入学。ドイツ連邦ヴュルテンベルク王国で軍人としての道を歩み始めた。
【飛行船】
1880年代以降、ツェッペリンは操縦可能な気球という概念に夢中であった。彼は1874年には既に完全な青写真を書き上げており、当時のヴュッテンベルク王カール1世に対し大型飛行船の軍事利用を勧める書状を出している。
ツェッペリンはボーデン湖上空をLZ1で三回飛行した。飛行は繰り返すごとに上手くいくようになり、世論を陶酔させた。1908年にLZ4がエヒテルディンゲン(Echterdingen)で墜落したことも、逆に公衆の興味を惹いた。650万マルクの募金が集まり、それによりツェッペリン飛行船製造株式会社とツェッペリン基金が創立された。

同年、軍はLZ3を購入しZ1と改称して使用を開始した。1909年のはじめには、「ツェッペリン」は民間の航空会社にも使われるようになった。1909年までの間に、ドイツ飛行船運行会社は1600回以上の飛行を無事故で行ない、累計3万7250人の旅客を運んだ。たったの数年で、「ツェッペリン革命」は航空運輸の時代を作り出したのである。

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朝日新聞社 100人の20世紀 上 1999年発行
フェルディナント・フォン・ツェッペリン (1838-1917) 79歳で死亡 【執筆者】林梓生 (一部抜粋しています)
ルフレット・グレチンガーは、そのとき20歳。史上最大のツェッペリン飛行船「ヒンデンブルク号」のコックをしていた。
1937年5月6日、米国ニュージャージー州レークハーストに着陸の寸前だった。
乗員に、全部に移るよう命令が出た。着陸のバランスをとるためだ。乗員はぞろぞろと前部に移った。グレチンガーさんは途中で止まり、通気孔から下をながめていた。それが生死の分かれ目になった。
係留マストに近づいたとき突然、船尾から火が出た。水素ガスがすごい音で爆発した。全長245メートルの船体はあっという間に炎上し、1分足らずで骨組みだけになった。
「船尾が地面に着き、船体が大きく傾きました。火が迫ってくる。下を見るとすごい高さだった。死ぬんだと覚悟しました」
気がつくとグレチンガーさんは地上のぬかるみの中にいた。通気孔から下に落ちたのだ。足にけがをしていた。近くの人々に助けられ、病院に運ばれた。
乗員、乗客96人のうち、30数人が命を落とした。バランスを取るため前部に移動した乗員は全員が死んだ。
事故後、ドイツ政府は新たな飛行船の製造を禁止した。
ツェッペリンが開発した「ツェッペリン式飛行船」は乗員、乗客を会わせて100人以上を運べた。それに対し、当時の一般的な旅客機はドイツのユンカースで21人、アメリカのDC3で23人にすぎなかった。
航続距離はユンカース、DC3どちらも1000キロ弱だった。しかし、飛行船は1万1000キロ。大西洋を越え、米国まで飛ぶことができた。
客室は2階建になっており、2階には20以上の個室と食堂、ラウンジと読書室。1階にはシャワールーム、バー、喫煙室。食堂にはチーク材のテーブルと椅子が並び、大きな窓から眼下の展望が楽しめた。小型のグラウンドピアノが置かれ、ダンスパーティーも催された。まさに「空飛ぶ豪華客船」だった。
だが、ヒンデンブルクの惨事は、これらすべてに終わりを告げた。
巨大飛行船は、気象条件が悪い場合、大きな図体の制御に問題があった。原理的に生き残れない運命だった。恐竜が進化の袋小路に入り込んでしまったように。
フェルディナント・フォン・ツェッペリン1838年、ドイツ南端コンスタンツの伯爵家に生まれた。
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軽いアルミニウムの骨組みを何層もの布で覆い、内部に水素ガスを詰めた十数個の袋をおさめる。発明されたばかりのダイムラーエンジン2基(合計29馬力)でアルミ製のプロペラを回す。
こうして1900年7月2日、ドイツ南端ボーデン湖の上に全長128メートルの1号機が浮かんだ。ゴンドラには、61歳のツェッペリンら5人が乗っていた。
8年後には4号艇(全長136メートル)が24時間飛行に挑む。ライン川上空を飛ぶコース沿いの工場や学校は休み。教会の鐘が鳴りひびく中、人々は空を仰いだ。
しかし2日目、突風に襲われる。船体は傾いて林にひっかかり、燃え上がった。
飛行船の残骸を見つめるツェッペリンには、もう再起する資金はなかった。
そのとき、一人の男が、事故現場に集まった人たちに呼びかけた。「飛行船の闘士を見殺しにするな」。新聞が取り上げ、うねりのように募金運動が起きた。今の180億円余りにあたる義援金が寄せられた。
その金で投資金や借金を返し、飛行船の建造会社と運航会社を設立した。国内の定期便を就航させ、郵便も運びはじめる。ツェッペリンの飛行船は第一次世界大戦の前までに3万人以上の旅客を運ぶ。彼は一躍、英雄になった。
一方で、彼の耳には航続の飛行機の音が聞こえていた。
飛行機は、1903年ライト兄弟が約36メートルの初飛行に成功。6年後にフランスで開かれた飛行大会では、航続距離180キロと時速90キロを記録。急速に発達していた。
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第一次世界大戦後、ジャーナリスト出身のフューゴ・エッケナーがツェッペリン飛行船の事業をうけつぎ、全長236メートルの「ツェッペリン伯号」を建造した。
米国の新聞王ハーストらの後援出資をとりつけ、29年8月、ニューヨーク近郊のレークハーストを出発する。地球を東回りに、3階着陸しただけで1周した。飛行時間は12日半。途中、茨城県霞ヶ浦にも着陸。東京上空を飛行している。
続いて南米空路を開設し、北極圏飛行にも成功する。そして、北米航路に取り組んでいたとき、「ヒンデンブルク号」の事故が起きたのだ。
第二次世界大戦に突入すると、すでに戦略的価値を失っていた飛行船の出番はなかった。40年、最後の2機が解体され、ライバルである飛行機の材料となった。
飛行船の栄光の時代は終わった。

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