じじぃの「人の死にざま_750_F・ポルシェ」

フェルディナント・ポルシェ - あのひと検索 SPYSEE
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KDF KUBELWAGEN TYPE 82 by FERDINAND PORSCHE 動画 YouTube
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FERDINAND GT3 RS - The World`s slowest Porsche 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=GaQB_tgS7f0
真っ赤なポルシェ 画像
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フェルディナント・ポルシェ フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』 (一部抜粋しています)
フェルディナント・ポルシェは、オーストリアの自動車エンジニア。
ダイムラーメルセデス(ベンツとの合併後はダイムラー・ベンツ、現メルセデス・ベンツ)の古典的高性能車群、ミッドシップエンジン方式を採用した画期的レーシングカーのアウトウニオンPヴァーゲン、史上最も成功した大衆車と言われるフォルクスワーゲン・タイプ1(ビートル)など、1900年代から1930年代にかけて自動車史に残る傑作車を多数生み出した設計者として知られる。
さらにティーガーI、ティーガーII、エレファント重駆逐戦車といったドイツ国防軍戦車も手がけた、多才な人物であった。
その傑出した業績から、後年の自動車評論家たちによって、20世紀最高の自動車設計者に選出されている。
【経歴】
オーストリア=ハンガリー帝国配下であった北ボヘミア(現在のチェコ西部)リベレツ近郊の町、マッフェルスドルフに生まれる。職業訓練校で学んだ後、配管工として父親の会社に就職したが、自力で電源設備を製作し、街で初めて自宅に電灯をともすなど、単なる職人に留まらない才能と好奇心を見せていた。
1900年、車輪のハブにモーターを搭載した電気自動車を考案。この発想は、現代の電気自動車や一部のハイブリッドカーに用いられるインホイールモーターの先駆である。この自動車はパリ万博にも出展された。更には電気自動車の弱点である蓄電池の非力さ・航続性能の弱さを補うため、ガソリンエンジンを搭載し、発電した電力で走行するモデル「ミクステ」も開発した。
1933年に、ドイツの覇権を握った独裁者アドルフ・ヒトラーから国民車(ドイツ語でフォルクスワーゲン)の設計を依頼された。ようやく理想の小型大衆車開発を実現したポルシェは、3年後の1936年には流線型ボディ・空冷リアエンジン方式の1,000cc試作車を完成、1938年には計画通りの量産化に着手している。この際、車名はヒトラーにより「Kdf」(歓喜力行車)とされた。後のフォルクスワーゲン・タイプ1(ビートル)である。
第二次大戦中にはヒトラーの意向により、フォルクスワーゲンをベースとした軍用車両(キューベルワーゲンシュビムワーゲン)やティーガー戦車等の戦闘車両の設計に携わった。
ドイツ敗戦後の1945年、戦争犯罪人としてフランスにより逮捕され、同国中部の都市ディジョン の刑務所に収監された。
長い収監中に健康を害したが、設計業務を再開してイタリアのチシタリアから多額の資金を得た息子フェリーが保釈金100万フランを支払ったことで、収監から約20ヶ月後の1947年8月1日に釈放された。
その後は健康状態が優れず、自動車の設計やポルシェAGの運営の大部分は息子フェリーが取り仕切ったが、戦後、1945年から本格生産を開始したフォルクスワーゲンと1948年から生産開始されたポルシェ・356の成功を見届けた。1950年11月に脳卒中を発症、翌年1月、75歳で死亡した。
死後、自動車殿堂(1987年)、及び国際モータースポーツ殿堂(1996年)入りしている。

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朝日新聞社 100人の20世紀 上 1999年発行
フェルディナント・ポルシェ (1875 - 1951年) 75歳で死亡 【執筆者】林梓生 (一部抜粋しています)
1932年初め、ドイツ南部シュツットガルトにあるフェルディナント・ポルシェの設計事務所に、ロシア語なまりの電話があった。
「ポルシェ博士にお会いしたいのですが……」
間もなく2人の男が事務所に現れた、ソ連の技術者のようだが、用件がはっきりしない。ポルシェは「トラクターの特許でも買にきたのだろうか」と思った。しかし3回目の訪問で彼らが示したのは、ソ連政府からの視察旅行の招待状だった。スターリンじきじきの申し出です、と彼らはいった。スターリンは自動車の生産体制を強化したかったのだ、
ポルシェは招待を受け、ソ連に出かける。スターリングラード(現ボルゴグラード)のトラクター工場をはじめ、自動車コンビナート、航空機・戦車工場、鋳造工場などを見て回った。5ヵ年計画で工業化を急ぐ新生ソビエトの心臓部ばかり。破格の待遇である。
食事も豪華だった。ただ、酒がウオッカばかりだったので閉口した。「故郷のピンゼンビールが飲みたいよ」と冗談をいうと、翌日の食卓にピンゼンビールが現れた。ドイツからわざわざ飛行機で取り寄せたのだ。
ポルシェに提示されたのは、自動車産業開発を担当する工業公団局長のポストだった。広範囲の特権をともない、魅力な内容である。
しかしさんざん迷った末、彼は辞退した。「ロシア語の壁は、56歳の自分にはとても乗り越えられない」との判断だった。
ドイツに戻った彼を待っていたのは、もう一人の指導者、ヒトラーからの指名だった。
33年、政権を握ったヒトラーは「国民車」フォルクスワーゲンVW)の開発計画を発表した。
「快適で経済的な小型車」はポルシェの長年の夢だった。彼は設計に没頭する。
試算では販売価格が1500マルク前後だった。これに対しヒトラーは「1000マルク以下」を厳命する。当時の平均的な労働者の10ヵ月分の収入に相当した。頭をしぼっていきついたのが、材料を節約できる流線形のデザインだった。「ビートル(かぶと虫)」の愛称はそこから生まれた。
シュツットガルト商工会議所会頭のベルトホルト。ラインビンガーさんはいう。
「ポルシェがいなくても、だれかがVWをつくったでしょう。でもそれはビートルではなかったはずです」
37年、ダイムラー・ベンツ社の手で1130CCの試作車がつくられ、テスト走行が始まった。
だが翌年、ドイツはオーストリアを併合し、欧州に緊張が走る。そして39年9月ポーランド侵攻第二次世界大戦が始まった。
大衆車のはずだったVWビートルは、軍用車として急ピッチで生産される。指揮官車、不整地走行車、水陸両用車など、約7万台が戦場に送られた。
45年5月、ドイツは無条件降伏し、国土は英、米、仏、ソの4ヵ国に占領された。
オーストリア疎開していたポルシェはその年の暮れ、仏軍から呼び出しを受ける。「仏の国営自動車工場の設立に協力してほしい」という要望だった。
ポルシェは長男フェリー、娘婿アントン・ピエとともに、バーデンバーデンのホテルに出向いた。しかし現れたのは仏警察の刑事。3人はその場で逮捕されてしまう。戦争中に仏人労働者を虐待したという戦争犯罪の容疑で、逮捕状には仏の法務大臣がサインしていた。
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ポルシェが戦争容疑で拘束されていた46年、長男のフェリーらは疎開先のオーストリアでもポルシェ社を設立した。といっても、仕事は自動車修理やトラクターの部品づくりだった。
そこへ、イタリアの会社からレーシングカーの設計注文がきた。ポルシェ社が再び自動車を開発する道が開けた。
ポルシェがフランスから戻ると、VWの部品をもとにスポーツカーの開発に乗り出す。フェリーが設計した「ポルシェ356」は49年、水死の国際モーターショーに出品され、その斬新なデザインが人気を集めた。自信を深めたポルシェは本社をシュツットガルトに移し、本格的なスポーツ車生産を始めるのである。
しかしその後のポルシェは、技術的な助言はするものの、会社の経営はほとんどフェリーらに任せた。フランスでの拘束が持病を悪化させていた。75歳の誕生パーティーのあとで倒れ翌51年1月に死んだ。

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