じじぃの「人の死にざま_507_リンドバーグ」

チャールズ・リンドバーグ - あのひと検索 SPYSEE
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Charles Lindberg flight 1927 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=uIUL_qUJUOo&feature=related
Charles Lindbergh Speaks on a United European Race 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=sAlCDMp-Y3c&feature=related
チャールズ・リンドバーグ フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』 (一部抜粋しています)
チャールズ・オーガスタス・リンドバーグは、アメリカ合衆国の飛行家で、ハーモン・トロフィー、名誉勲章議会名誉黄金勲章の受賞者。1927年に「スピリット・オブ・セントルイス」と名づけた単葉単発単座のプロペラ機でニューヨーク・パリ間を飛び、大西洋単独無着陸飛行に初めて成功。1931年には北太平洋横断飛行にも成功した。
【生い立ち】
リンドバーグスウェーデン移民の息子としてミシガン州デトロイト市で生まれ、ミネソタ州リトルフォールズで成長した。彼の父親は弁護士、その後国会議員となり第一次世界大戦への米国の参戦に反対した。母親は化学教師だった。
彼は幼少時から機械への関心を示したが、1922年には機械工学から離れ、ネブラスカ航空機でパイロットと整備士の訓練に参加したあとカーティスJN-4「ジェニー」を買い、曲芸飛行士になった。1924年にはアメリカ陸軍航空隊で飛行士として訓練を始めた。訓練を一番の成績で終え1920年代にはライン・セントルイスの民間航空便パイロットとして働いた。
【大西洋単独無着陸飛行】
1927年5月20日5時52分(出発時の現地時刻)、リンドバーグはスピリットオブセントルイス号(ライアンNYP)でニューヨークのルーズベルト飛行場を飛び立ち、5月21日22時21分(到着時の現地時刻)、パリのル・ブルジェ空港に着陸、大西洋単独無着陸飛行に初めて成功した。飛行距離は5,810kmで飛行時間は33時間29分30秒だった。これによりリンドバーグは、ニューヨーク−パリ間を無着陸で飛んだ者に与えられるオルティーグ賞とその賞金25,000ドル、さらに世界的な名声を得た。
【余生】
1953年に大西洋単独無着陸飛行について書いた "The Spirit of St. Louis"(邦題『翼よ、あれがパリの灯だ』)を出版し、これにより、1954年のピュリッツァー賞を受けた。同書は1957年にビリー・ワイルダー監督の手で映画化されて有名になった(映画の邦題は『翼よ! あれが巴里の灯だ』。また原作にはないフィクションも一部含まれている)。
晩年は、妻アン・モロー・リンドバーグと共にハワイのマウイ島に住んだ。また、自然環境の保全に力を注ぐようになり、世界各地を回り、環境保護活動に参加、多額の資金を寄付した。
1974年8月26日の朝にハワイのマウイ島ハナのキブフルにある別荘にてリンパ腫瘍が原因で72歳で死去。

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『人間臨終図巻 下巻』 山田風太郎著 徳間書店
リンドバーグ (1902-1974) 72歳で死亡 (一部抜粋しています)
翼(つばさ)よ、あれがパリの灯だ」−−リンドバーグが1927年はじめて大西洋を飛行機で単独黄疸無着陸飛行して一躍世界の名士となったのは、彼が25歳のときであった。
位語も彼は、愛児の誘拐惨殺事件や第二次大戦前ナチス礼賛論を唱えたりして話題の主でありつづけた。しかし晩年は「墜(お)ちた偶像」であったといっていい。
リンドバーグは自分の肉体がガンに冒(おか)されていることを、死の1年前から知っていた。ニューヨークのコロンビア大学病院で、11人の医者と完璧な設備に守られた治療を受けていたのである。しかし、死をはっきり自覚したとき、リンドバーグは病院を出た。
「ニューヨークで薬ぜめにあって1ヵ月生きのびるより、美しいマウイの家で楽しい1日を送りたい」
といって、彼はハワイのマウイ島に飛んだ。1974年8月のことであった。
リンドバーグはハワイのマウイ島の美しさを愛し、1969年その島の地主プライヤーから土地を借りて別荘を作っていたのである。
マウイに着くと、彼はすぐに自分で葬式の計画をたてた。墓石の寸法から棺の作り方、死装束、参列者、葬式のやりかたに至るまで、みずから設定した。
それによると、彼の死装束は作業服で、参列者も平服だった。葬式はハワイアン式で、ハワイアン・コーラスの4人に、ハワイの葬式の唄「カ・ラ・ニ・クウ・ホメ(天使のお迎え)」を歌わせるというのだった。
マウイに着いてから8日目に彼は死んだ。8月26日午前7時15分であった。
彼の葬られた墓地には、彼が大阪万博にいったとき日本の皇太子から贈られ、その後毒の花を食べて死んだキャミーという愛猿がすでに埋められていた。動物とともに葬られる−−これはキリスト教に対する彼の叛逆的行為であった。

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