じじぃの「医師の道を捨てケニアに保育園を作った日本人!世界ナゼそこに」

キラキラ目次日本語
アフリカ大陸の東、ケニアタンザニアの国境の町ナマンガで、2004年、小さなプロジェクトが立ち上がりました。
その名はキラキラ。
ケニア人Kenyan の J と、日本人Japanese の K が、今この瞬間も一つの夢に向かって生きています。
国境のない平和な世界を、真に豊かな世界を築いていくために、今私たちに何ができるのか、ともに考えてみませんか?
http://www.geocities.jp/kj_kirakira/
Yokohama C platYokohama C plat
ケニア共和国ナマンガでの教育支援及び村落開発の活動(キラキラ・プロジェクト)を支援することを目的とし、その活動・新規事業構想などに対し提言し、日本における広報・資金援助その他の活動を行っている。
http://yokohama-c-plat.org/member/2010030.html
世界ナゼそこに? 日本人 〜知られざる波瀾万丈伝〜 2013年3月1日 テレビ東京
【MC】ユースケ・サンタマリア杉崎美香 【ゲスト】たかのてるこ原幹恵東貴博渡部陽一西山茉希高橋尚子 【ナレーター】来宮良子
●医師の道を捨て秘境に保育園を作った日本人
取材班は日本から25時間かけて、ケニア・ナマンガに到着。ここでは住民の7割が携帯電話を所有しており、町のバーまで充電しに来るのだという。そして、医師の道を捨て保育園を営むのが相原功志さん。彼の「キラキラ保育園」には104人の児童が通っており、日本の歌や算数を指導。ケニアでは試験に合格しないと小学校に通えないため、まるで小学校のような教育も行なっている。
保育園には相原さんの2人の娘も在籍しており、妻が園長先生を務めている。相原さんの仕事は経営者で事務長、トラブルは日常茶飯事だが、日本で医師免許を持っているため簡単な治療も行えるのだという。
取材班は相原さんの一日に密着。相原さんは毎朝児童登園の受付を行い、日本式の朝礼で規律と協調性を養う。授業の間に事務仕事をこなし、給食の後に児童は昼寝。その間に日曜大工も行い、閉園時には迎えを義務付けている。そして相原さんは午後6時に帰宅。
1972年、相原さんは埼玉県に誕生。父を公務員に持つ相原さんは内弁慶な自分を変えたいと、高校ではラグビー部に入部。高校3年生の時にはフィンランドに留学し、初めての親友が出来た。しかし、多感な時期にその親友が自殺。人の命を救う仕事がしたいと思うようになり、新潟大学に入学。医師へ向けて前途洋々な人生を送っていたが、教科書に載っていた貧しい子供たちを目にした。
相原さんは医者の仕事を休職してアフリカへ。10数カ国を放浪し、国境の町ナマンガに辿り着いた。そこで今の妻であるジャシンタさんに出会い、子供たちのためにアフリカで保育園を作ろうと決断した。帰国した相原さんは医師の道を捨て、なんの保証もないまま再びアフリカへ。2人は2004年に結婚し、アフリカの子供たちを笑顔にしようと約束した。
息子を医学部にまでやった公務員の父親は、何のために医学部を卒業させたのかわからない。放任し過ぎたかもしれないが、自由奔放にやったら良いと話した。また、相原さんは「両親が自分にしてくれたことは痛いほど実感している」と語った。
医師を辞めた相原さんは、全財産の100万円で土地と資材を買い、自ら混じって保育園を建設。2005年に手作りの園舎が完成した。預かる園児は年々増加、しかしお金の匂いを嗅ぎつけた人達に悪い風評を立てられ、経営が悪化。経営が危うくなった時、相原さんは自分達の食事を分け与え、給食と親身な教育を振舞った。
街中の尊敬を集める相原さんは、町の中心から5km離れた場所に小学校を建設する計画を明かした。
http://www.tv-tokyo.co.jp/nazesoko/
どうでもいい、じじぃの日記。
3/1、テレビ東京 『世界ナゼそこに? 日本人』で「医師の道を捨て秘境に保育園を作った日本人」を観た。
こんなことを言っていた。
ケニアで子供たちを救う】
一部屋に30〜40人の子供たちが勉強をしている。若い女性が子供たちの勉強を見てあげている映像が出てきた。
年中組のクラス。英語とスワヒリ語を勉強しています。すると相原功志さん(39歳)が小さな女の子を抱きかかえました。
相原さん、「園長先生の娘です。園長でもあり、私の妻でもあります。ということは(この子は)私の娘なんです。父親も母親もここで仕事をしていますので、ついでに娘も連れてきています」
知的な感じの黒人女性ジャシンタさん(38歳)が相原さんから紹介された。
保育園の先生として教える彼女は相原さんの奥さん。この道20年のベテラン園長さんです。また長女のノゾミちゃん(3歳)も今年から入園。次女は入園前ですが、両親が家にいなくなるので、特別に連れてきているんです。
相原さんは経営者でありながら、すべて雑務を引き受ける事務長。園長のジャシンタさんと夫婦で二人三脚でこの保育園をきりもりしています。
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1972年、埼玉県岩槻市(当時)に生まれた相原さん。父親は公務員。2人兄弟の末っ子で大人しい少年でした。相原さんは内弁慶な自分を変えたいと、高校ではラグビー部に入部。高校3年生の時にフィンランドに留学。ここで初めての親友と呼べる友達もできました。しかし、もっとも多感な時期にその親友が自殺。友を救うことはできなかったのか・・・。人の命を救う仕事がしたいと思うようになり、新潟大学に入学。医師へ向けて前途洋々な人生。誰もが羨む地位と名誉。しかし、相原さんの心にはある疑問が生じていました。
相原さん、「(日本では)1人の命を救うために研修医と専門医が何人かついて、本当に徹夜で働いている。そうしている間にアフリカでは多くの命が失われ、多くの子供がほんのちょっと、何百円というお金がないために、十分な食事ができないでいる」
命の重さに人一倍敏感な相原さんにとって、命の格差など許せないものでした。実は相原さんにはずっと心に引っ掛かっていた一枚の写真があったのです。
本に載っているやせ細った黒人の子供が、何かを訴えているような写真が出てきた。
高校時代、社会の教科書に載っていた目を離すことができなかった写真。そこにあった飢餓に苦しむアフリカの子供たちの写真に言いようのないショックを受けました。
相原さん、「将来はこの男の子を救いたい。アフリカに渡る」
相原さんは医者の仕事を休職してアフリカへ。10数ヵ国を放浪し、国境の町ナマンガに辿り着いた。そこで今の妻であるジャシンタさんに出会い、子供たちのためにアフリカで保育園を作ろうと決断した。帰国した相原さんは医師の道を捨て、なんの保証もないまま再びアフリカへ。2人は2004年に結婚し、アフリカの子供たちを笑顔にしようと約束した。
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じじぃの感想
番組を観ていて、こんな日本人がいるんだ。と誇らしく思えた。