じじぃの「アフリカの大地スーダン・志で駆ける日本人医師!プロフェッショナル」

スーダンで活躍する一人の日本人医師 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=3qMEksmTxhY
川原尚行医師の活躍! 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=xgbXh2IjTB4
川原尚行 画像
http://storage.kanshin.com/free/img_51/516225/k1732270962.jpg
村人との会議 認定NPO法人ロシナンテス代表 川原のブログ
スーダンの東側に位置するガダーレフ州のシェリフ・ハサバッラ村。
そこに、ロシナンテスが長く関わってきた診療所があります。
昨年の5月に、スーダン政府より突然の活動停止命令を受け、それから、方々に働きかけて、JICAの名前で現在も活動を継続しておりシェリフ・ハサバッラ村の隣村のマンスーラに新たに診療所を建設中です。
http://blog.rocinantes.org/2013/01/2013-01-26.html
川原尚行 ウィキペディアWikipedia)より
川原 尚行(かわはら なおゆき、1965年9月23日 - )は、医師、NPO法人ロシナンテスの理事長。
【略歴】
福岡県北九州市八幡東区生まれ。
1992年九州大学医学部を卒業。九州大学第二外科(当時、現在は消化器・総合外科)へ入局し臨床医として経験を積んだ。九州大学臨床大学院(生化学)を修了し博士号を取得した。外務省、在タンザニア日本大使館に医務官兼二等書記官として勤務、その後ロンドン大学にて熱帯医学を学び、在スーダン日本大使館に医務官兼一等書記官として勤務、2005年1月に辞職後、同年4月よりスーダンで活動を開始、翌2006年5月にスーダンにおいて医療を中心に活動を行っているNPO法人ロシナンテス」を設立。2006年に国際NGOロシナンテス・スーダン」を設立。
2011年3月11日の東日本大震災発生時には、日本に帰国・滞在していた。未曾有の災害のため、現地入りし、医療・災害復旧ボランティア活動を行った。2013年現在も、スーダンと東北双方での活動を続けている。
川原と同様に海外(アフガニスタン)で医療・社会支援活動を行っているペシャワール会中村哲九州大学の先輩にあたる。

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プロフェッショナル 「アフリカの大地、志で駆ける医師・国際NGO代表・川原尚行」 2013年9月16日 NHK
【出演】川原尚行 【語り】橋本さとし貫地谷しほり
●病の“背景”を、治療する
20年以上続いた内戦や、諸外国からの経済制裁などの影響もあり、今も貧困や病がまん延するスーダン。川原は地方の無医村へ出向き、巡回診療を行う。スーダン人医療チームと組み、多い日で200人以上もの患者を診る。しかし川原が行うのは診療だけではない。診療を行う際、常に意識しているのが、「地域を診る」ことだ。
診療の合間を縫っては、村々のインフラ環境をチェックする。スーダンでは水の問題が深刻で、感染症の原因となっている。村の人がどのような水を飲んでいるのか、下水の施設はどうなっているのか、川原は丹念に探る。病の根源には必ず地域の問題がある。一人一人を診るだけではなく、その根本から治療していくスタイルを貫いている。
●理屈じゃない、動くんだ
川原は常に、信念に従い「行動」を起こすことで人生を切り開いてきた。人の役に立ちたいと、医者の道を目指し九州大学医学部に入学。卒業後は外務省の医務官になった。当時スーダンは内戦の真っただ中。大使館職員とその家族しか診られない医務官の立場にもどかしさを感じ、職を辞した。
スーダンに行ってからも、「行動」を続ける。スーダンの国や人に関する理解が足りていないと感じれば、ひとつの村に住み込み、村人と共同生活を営んだ。
長引く内戦、経済制裁独裁政権など、スーダンが抱える問題は奥深い。海外の支援団体が活動できる幅も限られる。しかし、立ち止まらずに動き続けることで、一歩一歩、困難の壁を乗り越えていけると信じている。
https://www.nhk.or.jp/professional/2013/0916/index.html
どうでもいい、じじぃの日記。
9/16、NHK 『プロフェッショナル』で「アフリカの大地、志で駆ける医師・国際NGO代表・川原尚行」を観た。
こんなことを言っていた。
【アフリカの大地スーダン、志で駆ける日本人医師】
近年、経済成長が著しく世界から注目を集めるアフリカ。
大きな音楽ホールのような会場に多くの国からの人々が集まっている映像が出てきた。
5年に一度開かれるアフリカ開発会議が横浜で行われていた。
川原はある思いをもって、この場所に向かった。
川原さん、「ここでちょっと会っておけば、スーダンに行ったとき、また違う」
普段、面会が難しいスーダン副大臣に今、力を入れている計画を訴えた。
川原さん、「私たちはハルツームに新しい病院を建てようと思っています。あなたの力が本当に必要なんです」
スーダン副大臣、「連絡をください。スーダンで会いましょう」
日本とスーダンを駆けまわる川原。その原点はかって味わった忘れえぬ痛恨の体験だ。
川原は幼い頃から、思いだったら一直線の性格。情熱なら誰にも負けない自信があった。高校ではラクビーに明け暮れ、チームをまとめるキャプテンとして馴らした。
人の役に立つ仕事がしたいと、2浪して医学部に進み、医師となった。
トラックに大勢の軍人が乗り、どこからか、銃弾の音が聞こえる映像が出てきた。
内戦の真っただ中、外務省の仕事で赴任したスーダンでも、その思いは変わらなかった。
医師として、この国の人たちに医療を届けたい。
だが、川原の仕事は現地の日本人の健康管理。思いをかなえるには仕事を辞めるしかない。
日本には妻と3人の子供たちがいた。それでも一度抱いた思いは止められなかった。
39歳。ゼロからのスタートだった。
ラクビー部の仲間や高校の友人たちが資金集めに手伝ってくれた。そして、川原は再びスーダンに渡り、目の前の患者に向かい始めた。
自分は確かに人の役に立っている。充実した日々だった。
そんなある日、日本の自治体が寄贈してくれた大量の医薬品をスーダンに運んだ。先進国の薬。当然、喜ばれると思っていた。ところがスーダン政府は言った。
「ほとんどの薬は認可されていない。処分するように」
自らの手で貴重な薬を焼かなくてはならなかった。悔しさがこみ上げた。
川原さん、「俺はなんでアホなんや」
無駄にしたことが悔しかった。
川原さん、「しかし、援助してやるぞ、みたいなところがどこかにあったんだと思う。助けてやる。自分の中にそんな驕りがどこかにあったのかもしれない」
そんなときだった。川原は1つの依頼を受けた。首都(ハルツーム)から600キロ離れたシェリフ・ハサバッラ村。村人が遊牧民族。文化の違いもあり、外部の援助をほとんど受け入れていない村だ。
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川原は東日本大震災の発生直後から、被災地・宮城でも活動を行っている。
仮設住宅で暮らす人々を中心に、健康管理や子供の教育支援を行っている。
6月、スーダンに戻った川原は困難な交渉に挑んでいた。1年に渡り、立ち入りを拒まれている地域があった。川原はその取り消しを求め、役所に通い続けていた。
場所はあのハサバッラ村。川原が最初に診療所を設け、活動を続けてきた村だ。
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8年目の希望
突然、村を訪れる許可が下りた。ただし、期間は3日間だけ。その後は二度と行ってはいけない、という条件だった。
川原さん、「1年ちょっと。長かったですね。でも、本当は別にそれが出て終わりじゃないんでね。これからの方がすごく大切なんで。ひとつのけじめとして行けるのがよかった」
川原はすぐにハサバッラ村に向かった。
川原さん、(車の中で)「おっ、すごく並んでいる」
車から降りた場所から約50メートル先に、ずらっと村人が並んで川原を迎えていた。そして、子供たちが全員で何か歓迎の歌を歌っている。
到着した川原を待っていたのは、村をあげての歓迎だった。
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じじぃの感想
川原さんを待っている村人の映像を見ていたら、胸が熱くなった。