じじぃの「人の死にざま_1097_北林・谷栄」

北林谷栄 - あのひと検索 SPYSEE
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ビルマの竪琴」予告編 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=wxfrgTZxXQI
鬼平犯科帳 血頭の丹兵衛 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=9kp2SU82jg8
卒塔婆 画像
http://www.forest-ss.com/kizuna/touba01-2-2.jpg
NHKアーカイブス 「北林谷栄 2010年年9月19日
【キャスター】桜井洋子 【ゲスト】佐江衆一(作家)、植村花菜(シンガーソングライター)
今年4月、98歳で亡くなられた女優・北林谷栄さん。60年以上にわたって舞台、映画で活躍し、特に、若い頃から老女の役を演じ続け、「日本一のおばあちゃん役者」とも言われた。
出演映画の一つ「阿弥陀堂だより」(2002年)では、村はずれのお堂に住み、何気ない言葉で人々に癒しを与えてくれるおばあちゃん「おうめさん」を演じた。ロケ地となった長野県飯山市にはオープンセットの阿弥陀堂が今も保存され、北林さんが演じたおばあちゃんの面影を訪ねて全国からファンが訪れ、メッセージを残していく。
北林さん演じるおばあさんがなぜ人々を惹きつけるのか。
敬老の日を前に北林さんの生き様を描いたドキュメンタリーとともに、北林さんにメッセージを寄せた人たちの思いを取材し、「日本のおばあちゃん像」を見つめる。
http://www.nhk.or.jp/archives/nhk-archives/past/2010/100919.html
北林谷栄 ウィキペディアWikipedia)より
北林谷榮(きたばやしたにえ、1911年5月21日 - 2010年4月27日)は、日本の女優・声優。
本名・安藤令子/蓮以子。長男は画家の河原朝生。
【来歴・人物】
築地座の舞台を見て演劇に惹かれ、1931年に創作座の研究生となる。1935年に初舞台の「温室村」で主役を務める。
1936年、新協劇団へ入団し築地小劇場の『どん底』ナスチャ役で同劇団での初舞台を踏み注目を集める。久保栄を「お師匠さま」と仰ぎ、宇野重吉、信欣三とともに3人でサークル「文殊会」を組む。
1956年、市川崑監督で映画化された『ビルマの竪琴』には、物売りの老婆役で出演し、民衆のたくましさ、豊饒さを演じた。1985年に、同監督で再度映画化された『ビルマの竪琴』にもに同じ役どころで出演している。
ただし、本人の生まれ同様の口跡爽やかな江戸っ子(『鬼平犯科帳』第1シーズン第13話「笹やのお熊」1989年)・東京っ子(『銀座わが町』1973年) も演じた。
1974年公開の映画『華麗なる一族』では、他作品でのおしゃべりな印象の演技とは異なり、台詞は「あっ、そう」の一言と笑い声だけという佐橋総理夫人を演じ、静かな話題を呼んだ。1975年には大泥棒ホッツエンプロッツを元にした『お尋ね者ホッツェンプロッツ』を作・演出。
声優としてはベティ・デイヴィスやヘレン・ヘイズの吹き替えを担当。特に1988年春公開の『となりのトトロ』では、「サツキのクラスメイト・大垣勘太(カンタ)のおばあちゃん」の役を担当。幅広い世代に名前を知られることとなった。
2003年4月11日から13日まで世田谷パブリックシアターで催された舞台「北林谷栄の世界『蓮以子 93になった』」が公の場に出た最後となった。以後も出演交渉はあったがすべて断り、静かに余生を送っていた。

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『九十三齢春秋』 北林谷栄/著 岩波書店 2004年発行
いまや、紅(くれない)のとき (一部抜粋しています)
10月15日に『かの子かんのん』が打上げとなって、やっと自由の身柄たるを得た。
自由の身と言っても、わたしは老齢の身なので、ほんの1分間ほどのお手伝いで事を済ませた次第なのだけれど、やっぱり紐を鋏でチョン切ってもらうと天地は広くなり体の筋肉は柔らかくなり、血液は正直に体じゅうを駆けめぐりはじめる。
劇団の配慮から、劇場とブリッジをへだてたセンチュリー・ホテルという超近代k的な塔(タワー)なるものの28階に、姫サマのように収容してもらっていたのだが前近代も前近代むかしの世捨てびとのこもる草の奄のような我が家に戻ってきたのだから面くらう。
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もともとわたしは処世術の術についてはドジな人間で、40前の昔、ここに家を建てることのきめたのは、それが寺の所有地で隣は野草茫々たる墓地であるという一点だけが気に入っての決断だったのである。
数十年経ってみると、これはまったく盲滅法に成功していた――
隣は数百坪あろうかという墓地である。
当然住宅など建とう筈もない。
隣家の便所、台所など接近してオッ建つ不快もない。隣家の子供らの騒ぎ声に悩む愁いもない。更にあるがたいことは何百坪かを見晴らす墓地の景観を一望に我が庭から見渡せることである。
もっともこれには後にわたしも大奮発して我が庭のなかにコンクリートの物見台――言うなれば戦犯用の簡易死刑台のようなものを設置して4、5段のコンクリ・ステップをのぼると、死刑ならぬ簡易テーブルと小椅子が置かれ、お茶くらい飲めるという寸法である。
しかし春秋まことに広やかな羨望ではあるが、いかんせん時々この借景には卒塔婆など突立って凄味をそえることがある。現在この世田谷で無償の何百坪かの空間を借覧できることにはお卒塔婆ぐらいがまんするべきだろう。少々気味わるいが、どってことはない。わたしが殺したわけじゃなし、わはは。

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