じじぃの「人の死にざま_1098_宇野・重吉」

宇野重吉 - あのひと検索 SPYSEE
http://spysee.jp/%E5%AE%87%E9%87%8E%E9%87%8D%E5%90%89/15070
青年会議所誕生のもとは『本庄事件』では? 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=JAO5j4bXb2o
『三まいのおふだ』(瀬田貞二・文 宇野重吉・語り) 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=45SWUWVSJ-o
石原裕次郎出演 松竹梅CM 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=duKFKssvDzQ
日々好日(1月9日 宇野重吉 福井が生んだ俳優) 歴史は人生の教師
宇野 重吉は福井県福井市出身の俳優である。
ルビーの指輪」の寺尾聡さんの父親といったほうが分かるかもしれない。
http://blog.goo.ne.jp/basyauma21/e/dd62aa84bb0aa6dea801d2aa51998a12
宇野重吉 ウィキペディアWikipedia)より
宇野重吉(うのじゅうきち、 1914年9月27日 - 1988年1月9日)は日本の俳優、演出家。本名は寺尾信夫。
滝沢修らと共に劇団民藝の創設者であり、第二次世界大戦前から戦後にかけて長く演劇界をリードしてきた名優である。リアリズムを基調とした近代的な芸を追求していた。芸名は、中野重治鈴木三重吉に由来している。俳優の寺尾聰は長男。
【来歴・人物】
福井県足羽郡下文殊村(現福井市)出身。
1947年に第一次民衆芸術劇場(第一次民藝)を創設。それが1949年に内紛で解散した後、ついで1950年に劇団民藝を創設。ロシアのチェーホフなどのヨーロッパ各国の劇を演じ、たちまち新劇のリーダー的存在となる。中国や近代日本の題材なども扱い、確かな演技力と斬新な演出により、民藝を国内有数の劇団に育て上げた。モットーは「芝居でメシの食える劇団」。1946年には、有馬稲子新珠三千代などのスターを起用して、話題にもなった。
1954年、製作再開した日活が5社協定の締め出しによって出演俳優不足に悩んでいた際は民藝と提携契約を締結。多くの劇団俳優を日活映画に出演させ、自身も出演した。石原裕次郎との友情はこの時代から石原の死に至るまで続いた。
1964年には、大河ドラマ赤穂浪士』の蜘蛛の陣十郎役で、茶の間の人気者に。舞台にとどまらず、テレビや映画でも幅広く活躍した。後年は飄々とした老人役を多く演じた。1971年には「劇団は創立者だけの物である」という劇団一代論を発表して演劇界に衝撃を与える。

                                • -

『九十三齢春秋』 北林谷栄/著 岩波書店 2004年発行
「人間」を追いかけて (一部抜粋しています)
私が主役をやった『温室村』というのの少女の役を観てたのが新協の宇野重吉と信欣三さんなの。それで新協の例会で「創作座にいる北林谷栄というのから新協に入りたいという希望が出ているんだけど……」と議題にのぼったときに、重ちゃんと信さんが「いいじゃねえか、ありゃいいよ」と言ってくれたのだそうです。他の人は誰も私を観ていないから、「よかろう」ということになって入れられたの。
      ・
重ちゃんはそのころ、お姉さんの家に居候していてそこから通ってたの。重ちゃんとお弁当を半ぶんこすると、重ちゃんはその時ドカ弁みたいな、アルミの弁当箱に白い御飯がぎっしり詰まって、そこへ鱈の塩漬けを焼いた真っ白いひときれがおかず。真っ白い御飯の上に真っ白な鱈の塩漬けがパンと押しつけてあるだけのお弁当で、青みもなにもない。私、重ちゃん、かわいそうだなとそのときは思ってたけど、元気よかったから、べつにかわいそうなことなかったけども、重ちゃんもそんなだったのよ。そんなこともあって重ちゃんは私のことを戦友といいました。
それからアパートも重ちゃんは東中野会館にいて、私に来い来いと言って、私もあとでその東中野会館に引っ越ししたり……。あのお方は自分の住んでいるところは最高にイイところだと決めて、越してこいと簡単にすすめるのです。柿の木坂の家だってそうよ。自分の家の隣の家を知らないうちに勝手に決めてきちゃうの。「オレが話して持ち主に安くさせたんだ。話はすっかりついてるから隣に来い」っていうの。それで私、「やだわ」っていったのよ。「くたびれちゃうもの、重ちゃんの隣じゃ。私、やだわ」っていったの。そしたらブンブン怒っちゃって、最後まで本心から怒っていたみたいよ。いつも「とにかく来い」っていうの。東中野会館のころは重ちゃんもまだ青年で鬱陶しくなかったから、「いいわ」っていって行ったけど……、柿の木坂の重ちゃんの隣に私が住んで隣同士でいたら、民藝の他の人が考えても鬱陶しいですよ。それに私もくたびれるもの(笑)。でもほんとうに若い時分からあの人とは兄弟みたいにしてきました。年下のウルサイ兄貴と自分勝手な妹と。
      ・
――宇野重吉さんのように多面的な演劇活動をされた方はさまざまな顔をもっていたと思うんです。役者の顔、劇団経営者の顔、そして演出家の顔。演出家としての宇野さんはいかがでしたか。
最初におばあさん役を、といったのも重ちゃんです。あの人は若い頃から演出者の眼玉を備えていました。26ぐらいの時からもうすでに他人の持つ可能性というものを鋭く見抜く人でした。あの人がみつけてくれなかったら、私がおばあさんを演るということはなかったでしょう。
――そういう点でも優れた方だったんですね。
優れています。優れたところやイイトコロがあの人の演技のなかにはとてもよく現れ出てきます。内部に在るからこそ演技をつうじて真髄がみえてくるのです。喧嘩はしたけど、優れた人です。ダイヤモンドみたいにきらめくものを胸の奥のいちばん芯に持っていた人。俳優としては最高の持ち主です。あちらはあちらで私のことをよく「あんたは特等桟敷にいる。俺だけ泥をかぶる」と怒りました。私は「何で泥なんかかぶりの、なにも泥なんてかぶる必要なんかないじゃないの」とやりあって、物別れになっちゃうのです。でも重ちゃんは最後まで、「俺が庇ってやるからあんたは特等桟敷にいろや」と思ってくれていたみたいで、今はそれが判ります。

                                • -

宇野重吉 Google 検索
http://www.google.co.jp/images?hl=ja&rlz=1T4GZAZ_jaJP276JP276&q=%E5%AE%87%E9%87%8E%E9%87%8D%E5%90%89&gs_l=hp...0l5j41l2.0.0.0.683...........0.hMXgMLyAqkc&sa=X&oi=image_result_group&ei=_XgkUZeTLOyVmQWEgoGIDQ&ved=0CCQQsAQ