じじぃの「人の死にざま_1080_大槻・文彦」

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ビーバップ!ハイヒール 「日本初の国語辞典!『言海』誕生密話」 12年05月17日 動画 Youku
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クイズ - 日本初の国語辞典を編纂したのは? 2012年12月08日 ナショナルジオグラフィック
http://www.nationalgeographic.co.jp/quiz-poll/quiz/quizpoll_question.php?kind=1&question_id=650
大槻文彦 ウィキペディアWikipedia)より
大槻文彦は、日本の国語学者明六社会員。帝国学士院会員。本名は清復、通称は復三郎、号は復軒。
【人物】
江戸出身。日本初の近代的国語辞典『言海』の編纂者として著名で、宮城師範学校(現・宮城教育大学)校長、宮城県尋常中学校(現・宮城県仙台第一高等学校)校長、国語調査委員会主査委員などを歴任し、教育勅語が発布された際にいち早く文法の誤りを指摘したことでも有名である。

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『人間臨終図巻 下巻』 山田風太郎著 徳間書店
大槻文彦(おおつきふみひこ) (1847 - 1928) 81歳で死亡。 (一部抜粋しています)
明治8年、28歳のとき文部省から国語辞書の編集を命じられた大槻文彦は、爾来ほとんど独力で、イギリスのウェブスターに比肩する日本最初の近代的国語辞書の創造にとりかかった。それは一語ずつ、発音、語別、語源、語釈、出展など辞書にふかけつな条件を満たすものでなければならなかったから、そういう条件を欠いた古来の日本の辞書類には範を求めることが出来ず、まさに「創造」ともいうべき仕事であった。
のちに文彦はその苦心をもらす。
「酒宴談笑歌吹のあいだにも、ゆくりなき人のことばの、ふと耳にとまりて、はたと膝打ち、さなりさなりと覺(さと)りて、手帳にかきつけなどして、人のあやしみをうけ、又、汽車の中にて田舍人をとらへ、その地方の方言を問いつめて、はては、うるさく思われつることなど、およそ、かかるおこ(愚か)なる事もしばしばありき」
明治17年、やっと膨大な原稿は完成したが、その後の文部省の事情で、自費出版のやむなきに至り、ようやく、これが『言海』として世に出たのは明治24年4月のことであった。その間星霜17年、彼は44歳となり、彼の最愛の妻とただ一人の幼女は、その前年に死んでいた。
しかし大槻文彦は、44年という前半生で後世に残る偉業をなしとげたのである。「後世いかなる辞書が作られようと、必ずこの書が根拠となり、参考になるであろう」と彼は自負した。
大正元年から彼は、『言海』を増補した『大言海』の編集にとりかかった。
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昭和2年12月31日、彼は風呂場で倒れた。年が明けた昭和3年1月3日夜、また椅子から崩れ落ち、2月半ば、肺炎を併発した。
2月17日未明、大槻文彦は寂しいけれど充実した後半生の幕を下ろした。

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