じじぃの「人の死にざま_715_坂田・昌一」

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日本にノーベル賞が来た理由 2008年10月10日 日経ビジネスオンライン
幻の物理学賞と坂田昌一・戸塚洋二の死
http://business.nikkeibp.co.jp/article/manage/20081009/173322/
坂田昌一 ウィキペディアWikipedia)』 より
坂田昌一(さかたしょういち、1911年1月18日-1970年10月16日)は日本の物理学者。元名古屋大学教授。湯川秀樹朝永振一郎とともに日本の素粒子物理学をリードした。
【来歴・人物】
1911年、東京で生まれる。旧制甲南高等学校を経て、1933年に京都帝国大学理学部物理学科を卒業する。理化学研究所大阪帝国大学講師、京都帝国大学講師を経て1942年、名古屋帝国大学教授となる。湯川の中間子論の第2から第4論文の共著者である。
1955年、中性子・陽子・ラムダ粒子が最も基本的な粒子とし他のハドロンはこの3つの素粒子とそれらの反粒子で組み立てられるというハドロンの複合模型(坂田模型)を発表した。これは、基本粒子をさらに一つ増やした名古屋模型(1960年)および新名古屋模型(1962年)へと改良が加えられ、一定の成功を収めた。その後、この発展形であるマレー・ゲルマンらのクォーク模型の登場により、これらの模型は否定されることになった。ちなみに坂田はクォーク模型を全面的に支持し、むしろ提唱者のゲルマン自身がクォーク模型を仮定の理論としたことに対して否定的であった。
坂田学派と呼ばれる多数の弟子を育てたことでも知られる。彼の流れを汲む研究者としては小川修三、山田英二、牧二郎、大槻昭一郎、大貫義郎、梅沢博臣、高橋康やノーベル物理学賞(2008年度)を受賞した小林誠益川敏英らが有名である。

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『考える人 日本の科学者100人100冊』 新潮社 2009年発行
坂田昌一 『科学に新しい風を』 新日本新書 形の論理を物の論理へ。 【執筆者】池内了 (一部抜粋しています)
小林誠益川敏英両氏のノーベル賞受賞によって、その恩師であった坂田昌一の名が思い出されることになったが、時代さえ良ければ彼にノーベル賞が行っても不思議ではなかった。2中間子論は戦争によって評価が遅れ、坂田模型は換骨奪胎されてクォークモデルに姿を変え、ニュートリノ振動はようやく最近になって証明された。時代を先駆ける多くの業績は『知る人ぞ知る』になってしまったが、小林・益川を初めとする多くの弟子に受け継がれている。
この坂田流の科学の進め方をやさしくまとめたのが本書である。なかでも、「形の論理を物の論理へ」と強調したことが強く印象に残っている。「形の論理」とは、対称性や保存則など普遍的な数学形式として表現される物理法則である。彼は形の論理は物質が担っていることを強調し、物質の運動や反応性に則して、つまり「物の論理」として考えるべきだと指摘したのである、唯物弁証法の立場を徹底し、ともすれば机上の形式論に堕し勝ちとなる科学の弊風を戒めたのだ。それを忠実に体現したのが小林・益川による6種類のクォークモデルであった。

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