東西ローマ帝国 0375 ゲルマン民族の大移動が始まる 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=M2qQOIZFTPU
中世の温暖期 画像 ウィキペディア(Wikipedia)より
過去2000年の温度。複数のデータを同時に表示したもの。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:2000_Year_Temperature_Comparison.png
フン族を描いた19世紀の歴史画 画像 ウィキペディア(Wikipedia)より
フン帝国は中央アジアのステップから現代のドイツ、黒海からバルト海にまで広がっていた。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Hunnen.jpg
フン族の勢力範囲 画像 ウィキペディア(Wikipedia)より
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Huns_empire.png
民族大移動期における気温の変動 2011/01/20
400年頃に急激な寒冷化があり、1000年間以上なかった低温が出現した。
http://www.sizen-kankyo.net/bbs/bbs.php?i=200&c=400&m=244304
フン族がいきなり西方へ移動してきたのは何故でしょうか? 2005/08/01 教えて!goo
ゲルマン民族が移動することによって、ヨーロッパに変化が起きましたが、ではそのフン族がいきなり西方へ移動してきたのは何故でしょうか?
http://oshiete.goo.ne.jp/qa/1550917.html
フン族 ウィキペディア(Wikipedia)より
フン族(Hun)は、ヴォルガ川東方から現れた遊牧民の集団で、370年頃にヨーロッパへ移住して大帝国を築いた。彼らは恐らく300年程前に中国の北隣に居住していた匈奴の子孫であり、テュルク系民族のユーラシア大陸にまたがる最初の拡張であろう。フン族の起源と言語(en)は数世紀にわたり議論の的になっている。現在の学説では彼らの指導者たちの名はテュルク諸語で表されているとされている。彼らの主な軍事技術は騎乗弓射である。
フン族は民族大移動を誘発し、西ローマ帝国崩壊の要因となった。フン族はアッティラの元で統一帝国を築いたが、453年に彼が死ぬとその翌年に帝国は瓦解した。同じ名称の後裔または後継者がおおよそ4世紀から6世紀に東ヨーロッパと中央アジアの一部に住んでいたと記録されている。フン族の末裔が8世紀前半にカフカスで記録されている。
匈奴 ウィキペディア(Wikipedia)より
匈奴(漢音:きょうど、呉音:くぬ)は、紀元前4世紀頃から5世紀にかけて中央ユーラシアに存在した遊牧民族および、それが中核になって興した遊牧国家(紀元前209年 - 93年)。モンゴル高原を中心とした中央ユーラシア東部に一大勢力を築いた。
【読み】
白鳥氏の「フナ(Hu-na)」説であるが、五胡十六国時代のタリム盆地などにおいて、匈奴人(前趙)のことを「フン」と呼んでいたことや、のちのフン族にしばしば結び付けられてきたこと(フン=匈奴説)、匈奴の別称「胡」は中国語で「フゥ」と発音することから、当時の読みが「フン」ないし「フナ」であった可能性が高い。そうなれば、5〜6世紀に中央アジアに割拠したエフタルの別称「フーナ」、「フヨーン」や、サーサーン朝と戦った「キオン(ヒオン)」、ヨーロッパに侵入した「フン族」といったいわゆる「フーナ民族(en:Huna people)」の語源になった可能性も高い。
ローマ帝国 ウィキペディア(Wikipedia)より
紀元前27年よりローマ帝国は共和政から元首政(帝政)へと移行する。ただし初代皇帝アウグストゥスは共和政の守護者として振る舞った。ディオクレティアヌス帝が即位した285年以降は専制君主制(ドミナートゥス)へと変貌した。
313年にコンスタンティヌス1世が、首都をローマからコンスタンティノポリス(コンスタンティノープル)へ遷した。テオドシウス1世は、古くからの神々を廃し、392年にキリスト教を国教とした。395年、東ローマ帝国と西ローマ帝国に分裂。その後帝国が統合されることは無かった。
西ローマ帝国は経済的、軍事的基盤が弱く、ゲルマン人の侵入に抗せず476年に滅亡。6世紀に東ローマ帝国による西方再征服も行われたが、7世紀以降は領土を大きく減らし、国家体制の変化が進行した。8世紀にローマ市を失った後も長く存続したが、1453年に首都コンスタンティノポリスが陥落し、ローマ帝国は完全に滅亡した。
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『目からウロコの世界史』 島崎晋/著 PHP文庫 2006年発行
ゲルマン民族の大移動 民族の大移動で塗り変わるヨーロッパの地図 (一部抜粋しています)
ゲルマンは北欧からドイツ、東欧にかけての広い範囲に移住していた。中部ヨーロッパの覇者だったケルトの勢力が弱まるとともに直接ローマと接し、歴史書に登場の機会も多くなる。ローマ皇帝ドミティアヌス(在位81〜96年)の属州ゲルマニアの設置以来、ローマとゲルマンとの境界はおおむねライン川とドナウ川を結ぶ線に置かれ、ゲルマンの一部はローマから許可を得て合法的にローマ領内に移住していた。ローマは志願兵による軍団編成が困難になってきたことから、かれらのなかから積極的に兵を集めていた。その結果、4世紀末にはローマ軍内に占めるかれらの割合は非常に高くなり、そのなかから将軍にまで出世する者、国政を左右する者まであらわれることとなる。
375年、ライン・ドナウ川以東のゲルマンは、東方からの強大な圧力に襲われる。遊牧民フン族がヴォルガ川を越え大挙西侵してきたのである。ゲルマンはフン族の圧力に抗すべくなく、これに押されるかたちでぞくぞくとローマ領内に侵入した。世にいう民族大移動のはじまりである。
フン族は、かって北アジアに勢力をはったトルコ系・モンゴル系遊牧諸部族の連合体――匈奴(きょうど)ではないかといわれている。内紛で分裂して以降、一部は漢朝に帰順したが、一部は西へ走って2世紀後半を最後に中国の史書から姿を消す。この西に走った一団がフン族、あるいはフン族の母体になったという説は、たしかに時間的にはつじつまが合っている。匈奴という字の音が「フン」に近いこと、および発掘調査の結果からも、この説は有力視されている。
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どうでもいい、じじぃの日記。
世界遺産・カッパドキアを調べていたら、ローマ帝国が出てきた。気になって歴史書を読み直してみた。
島崎晋著 『目からウロコの世界史』にこんなことが書かれている。
「遊牧民フン族がヴォルガ川を越え大挙西侵してきたのである。ゲルマンはフン族の圧力に抗すべくなく、これに押されるかたちでぞくぞくとローマ領内に侵入した。世にいう民族大移動のはじまりである」
なぜ、ローマ帝国は滅亡したのか?
『目からウロコの世界史』では
「4世紀末にはローマ軍内に占めるかれらの割合は非常に高くなり、そのなかから将軍にまで出世する者、国政を左右する者まであらわれることとなる」
ローマ市民はローマ帝国の国防をゲルマン傭兵に頼るようになり、それが結果的にローマ帝国の滅亡につながったようなことが書かれている。
「ゲルマン民族の大移動」はなぜ起きたのか?
「ゲルマン民族の大移動」の前に「遊牧民フン族の大移動」があったのである。
遊牧民フン族とはどんな民族だったのか?
フン族はもともとモンゴルを中心とした高原地帯にいた遊牧民で「匈奴」と呼ばれた。中国の「万里の長城」は彼らの侵攻を防ぐために築かれたものだ。
信州大学人文学部教授の佐々木明氏の「完新世の気温変動と世界各地の文化とその変容」という論文に、
「400年頃に急激な寒冷化があり、1000年間以上なかった低温が出現した」
と書かれている。
彼ら、遊牧民匈奴は漢の時代に東(モンゴル)の匈奴と西(中央アジア)の匈奴に分裂した。その後、4世紀末に急激な寒冷化が地球を襲った。
たぶん、草原地帯の草が寒冷化で十分に育たなかったのだろう。モンゴルの匈奴の人たちは「後漢」後の中国に侵攻し、中央アジアの匈奴の人たちはヨーロッパに侵攻した。
ローマ帝国の滅亡の原因はいろいろ言われているが、ゲルマン民族の大移動によるものである。しかし本当の原因は4世紀末の急激な寒冷化による遊牧民フン族のヨーロッパへの侵攻だったのである。
ふんとかしら?