中村修二 - あのひと検索 SPYSEE
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夏向けに青色LEDを使った提灯 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=Bjg8V6t9HM8&feature=related
中村修二教授「夢に向かって勉強を」・愛媛新聞 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=riCKP1pHjVU
赤崎、天野、中村氏にノーベル物理学賞
東京スカイツリー
赤崎、天野、中村氏にノーベル賞=青色LED開発−物理学、日本人6年ぶり 2014年10月7日 時事ドットコム
スウェーデン王立科学アカデミーは7日、2014年のノーベル物理学賞を、実用的な青色発光ダイオード(LED)を開発した赤崎勇名城大教授(85)と天野浩名古屋大教授(54)、中村修二米カリフォルニア大サンタバーバラ校教授(60)に授与すると発表した。
青色の登場でLEDは赤、緑とともに光の三原色がそろい用途が拡大。消費電力が少なく、耐久性が高い特長が注目され、白熱電球や蛍光灯に代わる白色照明のほか、携帯電話などのディスプレー、交通信号などに広く利用されている。
http://www.jiji.com/jc/c?g=soc_30&k=2014100700836
中村修二 ウィキペディア(Wikipedia)より
中村修二(なかむらしゅうじ、1954年5月22日 - )は、元会社員、電子工学者、工学博士。 青色発光ダイオードや青紫色半導体レーザーの製造方法などの発明・開発者として知られる。
アメリカ合衆国のカリフォルニア大学サンタバーバラ校(UCSB)教授。愛媛大学客員教授。愛媛県西宇和郡瀬戸町(現伊方町)生まれの大洲市出身。
【来歴・人物】
徳島大学大学院工学研究科修士課程修了。修了時、京セラにも内定していたが、家族の養育の関係から、地元の日亜化学工業に就職。商品開発に携わった。
日亜化学工業社員時代に青色発光ダイオードの開発を社長に直訴し、会社から約3億円の開発費用の使用を許される。 米国・フロリダ大学に1年間留学後、日亜化学工業に戻り約2億円程度するMOCVD装置の改造に取り掛かるが、社長の交代等もあり研究の取り止めを求められた(著書より)。その後、青色発光素子であるGaN(窒化ガリウム)の結晶を作製するツーフローMOCVDを発明した。ツーフローMOCVDは通称404特許と呼ばれ日亜化学工業と特許権譲渡および特許の対価の増額を争った。
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『誰が本当の発明者か』 志村幸雄/著 ブルーバックス 2006年発行
青色発光ダイオード 元祖・赤崎勇と開発者・中村修二 (一部抜粋しています)
発光ダイオード(LED:Light Emitting Diode)は、2つの(ダイ)電極(オード)側に電流を流すと、電気エネルギーが光に変換されて発光する半導体素子である。1962年に米国ゼネラル・エレクトリック(GE)社のニック・ホロニアックが発光に成功し、60年代後半に赤色が実用化されている。その後、黄色、橙色、緑色なども実用化されたが、青色LEDの開発・工業化は遅れていた。研究室レベルで実現していたが、かすかな明るさ(10ミリカンデラ程度)で、しかも紫がかった青色をしていた。そのため、20世紀中の工業化は不可能だとさえいわれていた。
ところが、1990年前後になると、日本の企業や大学の研究者から青色LEDの実用化に向けた成果が相次いで生まれた。それも、もっとも実用化が困難視されていた窒化ガリウム系の化合物半導体で実現し、その光度は従来のものより100倍も明るい。94年には、徳島県阿南市の日亜化学工業(以下日亜化学)が世界に先駆けて製品化し、今や世界市場で圧倒的なシェアを誇っている。
青色ができたことで、赤、緑と併せて光の3原色が出揃い、鮮明な大型フルカラーディスプレーが見られるようになった。また、LEDの視認性のよさと長寿命という特徴を生かして交通信号機への採用が進んでいる。日本には2003年時点で約200万台の信号機があるが、LED化しているのはまだ2パーセントに過ぎず、本格的な需要は、むしろこれからなのだ。
LEDは早くから、白熱電球、蛍光灯に次ぐ第3の照明源として期待されてきたが、白色光が得られないことから実用化が遅れていた。それが赤、緑、青の3原色のLEDの組み合わせや青色LEDと蛍光体との一体化で白色光が得られるようになり、その可能性が一気に高まった。
白色LEDは、すでに携帯電話やデジタルカメラ用小型カラー液晶のバックライトとして利用されているが、今度は中・大型液晶パネルのバックライトや車載用(特にヘッドライト)などにも市場を広げることになろう。2010年頃には家庭用の照明器具としても本格的な採用が見込まれている。
青色LEDが市場に登場した意義は大きく、そのインパクトにも少なからぬものがあった。だが、それにもまして産業界に話題をよんだのが、青色LED開発の立役者の中村修二が、法廷で争った発明対価訴訟問題である。
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中村があえて法廷の場で自らの職務発明の価値を問うたのは、この青色LEDの開発が自分を抜きにしては実現しなかったという自負の表れだった。日亜化学は四○四号特許1つとっても「工業的にまったく役に立っていない」などと否定的な見解を示している。だが、その言い分通りだったとしても、中村のツーフロー方式の開発が青色LED実用化の重要な引き金になったことは動かしがたい事実である。技術の世界では、ブレークスルーをやってのけた者の努力に最大の敬意が払われるべきなのだ。
ところが、その中村もまた、この分野における先験的研究をあまり認めたがらないことに、筆者は不満を持っている。中村の開発研究も、基礎的な研究の積み重ねがなければ、これほど短期間には成果をあげられなかったと考えているからだ。
窒化物半導体の材料として有望なことは、早くから示唆されていた。ポイントは、この材料の持つバンドギャップ(禁制帯幅)の大きさである。赤や緑に比べて波長の短い青色を出すには、電子をより高いエネルギー位置から落下させて正孔と結合させねばならない。バンドギャップが大きい窒化ガリウムはその条件を備えていた。
わが国でも、松下電器産業東京研究所(現・松下技研)の赤崎勇(現・名城大学教授)が、1960年代半ばに窒化アルミニウムの研究を始め、73年には窒化ガリウムの研究をスタートさせている。赤崎は、この時点で早くも「青色発光は窒化ガリウム」との確信を持ち、これをライフワークにしようと決意している。
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ツーフロー製膜装置は、その名のとおりガスの流れを2つ持ち、横方向から原料ガスの有機金属ガリウムやアンモニア、水素を流し、上方向から押圧ガスとして窒素などの不活性ガスを吹き込む。原料ガスを不活性ガスで上から押さえ付けて、安定した高品質の膜を得るのだ。この装置の完成によって、1990年9月には高品質の窒化ガリウム結晶膜、91年3月頃には緩衝層として最適の低温窒化ガリウム緩衝層の作成に成功している。
中村のもう1つの成果は、窒化ガリウム半導体のP型化のアニール(焼きなまし)という熱処理技術を適用したことだ。すでに赤崎らが電子線照射による方法を考案しているが、中村らは600度C前後でアニールすれば、電子線を用いなくてもP型化できることを見出した。
日亜化学が94年に製品化した青色LEDは、このような技術の積み重ねに加え、発光層に窒化インジウム・ガリウムのダブルヘテロ(二重異種)構造を採用して初めて実現したものである。
こうした経緯を見れば、前人未到の青色LEDが、2人の日本人研究者によって生み出されたことは間違いない。事実、赤崎と中村は共にその功績が認められ、IEEEジャック・A・モートン賞、英国ランク賞、朝日賞、武田賞などを共同受賞している。さらに中村は単独でベンジャミン・フランクリンメダル、仁科記念賞、大河内記念賞などを受けている。
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中村修二 Google 検索
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