じじぃの「科学・芸術_759_逆説の世界史・ローマ帝国の滅亡」

The fall of the Roman empire in 3 Minutes

動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=-QHlih-Auyc

『逆説の世界史 2 一神教のタブーと民族差別』

井沢元彦/著 小学館 2016年発行

東西に分裂したローマ帝国と3つに分裂したイスラム帝国 より

ムハンマドの死によって始まった正統カリフ時代は極めて短い期間で終わり、その後、ウマイヤ朝(661~750年)がイスラム帝国を築き上げた。イスラム帝国というのは、帝王とカリフの座は一致しており、世族の帝王が聖職者の頂点を占めるという祭政一致の体制であった。
これに対して、キリスト教世界の中心であったローマ帝国においては、世族の王はローマ皇帝、聖職者の頂点はローマ教皇(法王)が務めるという、分業体制であった。
こうした違いが生まれた理由は、預言者ムハンマドが神の使徒であると同時に優れた軍事指導者でもあり、その軍事的征服によってイスラム教を広めたのに対し、イエスは軍事指導者になろうとせず、一般的な布教の方法をとったためだろう。
この差が中世のイスラム教世界とキリスト教世界の構造の違いとなったのである。
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キリスト教自体はそれより約半世紀前にコンスタンティヌス大帝(274頃~337年/在位310~337年)によって公認されており、その後、東西分裂の3年前の392年には、皇帝テオドシウス1世によってローマ帝国の国教とされていたから、むしろ東西に分裂したローマ帝国の接着剤のような役割を果たしていたのである。
しかし、三位一体に対する解釈の違いなど、教義の問題の対立で派閥抗争が生まれ、教会はたびたび宗教会議を開き、高位の聖職者の協議で調整を図ろうとしたが、結局、キリスト教外部の人間から見たら、さほどの差は認められないような点での対立が抜き差しならなくなった。
その結果、とうとうキリスト教会はローマ・カトリック教会とオーソドックス協会(ギリシャ語。日本ではこれを「東方正教会」と呼ぶ)の2派に分裂した。
この対立の争点は「フィリオクエ問題」と一般的には呼ばれるものである。この問題に関しての詳しい解説は省略する。その理由は、膨大な世界史のデータを扱う時、いちばん大切な点は余分な知識については語らないということだからだ。
歴史的事実を述べておくなら、この問題について双方がまったく譲らなかったため、西ローマ帝国の首都ローマの聖職者グループと、東ローマ帝国の首都コンスタンティノーブルの聖職者グループが、それぞれ相手を破門し独自の組織を運営していくことになった。
西はローマ教皇が聖職者組織の頂点に立ったが、東は何人かの総主教がいわば「教区」を「分割統治」していく形になった。そうなった原因は、西ローマ帝国の領域に、ローマ人の言う「蛮族(barbarian)」つまりフン族(Hun)やゲルマン人(Germanen)が盛んに認入し、早い段階で帝国を滅ぼしたからである。
ここに至って、ローマ帝国の言語であったラテン語はそれぞれの地方の方言に吸収される形となり、イタリア語、フランス語、スペイン語などになった。
一方、ゲルマン人の言葉はその勢力の強かった地方ではスタンダードな国語に変化した。英語、ドイツ語、オランダ語などである。
つまり、かつて西ローマ帝国として1つであった地域が個々の国として独立し、言語もバラバラということになってしまった。そのため、いわゆる現在の西ヨーロッパに伝統的に住んでいた白人たちが、「蛮族」をあるいは討伐し、あるいは融和した後には、カトリック教会は西ヨーロッパ人の統合の象徴となったのである。西ローマ帝国ローマ・カトリック教会ローマ教皇庁)に生き残ったとも言える。
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ではこの間、イスラム教の地域はどうなっていたのであろうか?
イスラム教では異教徒を征服する聖戦(ジハード)を通して教えが拡大されていく。その軍団を中核を務めたのがアラブ人であった。
既に述べてように、ウマイヤ朝を開いたムアーウィアとヤズィードの親子が、正統カリフの子孫を戦いによって滅ぼし、カリフの座と帝王の座を一変させた。そして、彼らの子孫は北西インド、北アフリカを征服し、海を渡って現在のスペインのイベリア半島に侵攻し、711年にはゲルマン系の西ゴート王国を滅ぼした。
さらに718年には東ローマ帝国のコンスタンティノーブルを攻め、732年にはフランク王国を滅ぼそうとするが、当時、メロビングフランク王国重臣だったカール・マルテル(688頃~741年 西ローマ皇帝となったカール大帝の祖父)にトゥール・ポアチエの闘い(732年)で敗れ、その野望は潰(つい)えた。後に孫のカールがフランク王国の国王となるのも、ローマ教皇から皇帝の冠を授けられるのも、この祖父の大きな功績が影響を与えていることは間違いない。