じじぃの「人の死にざま_603_ゾルゲ」

リヒャルト・ゾルゲ - あのひと検索 SPYSEE
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Richard Sorge - Stalin's spy in Tokyo 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=XUeqnH6HRMg
Spy Sorge (スパイゾルゲ) 1/10 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=rtSBbhFZki4&feature=related
Spy Sorge (スパイゾルゲ) 8/10 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=IR89N2eWOdQ&feature=related
リヒャルト・ゾルゲ フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』 (一部抜粋しています)
リヒャルト・ゾルゲは、ソ連軍のスパイである。1933年(昭和8年)から1941年(昭和16年)にかけてゾルゲ諜報団を組織して日本で諜報活動を行い、ドイツ、日本の対ソ参戦の可能性等の調査に従事した。ゾルゲ事件の首謀者。
【プロフィール】
石油会社に勤めコーカサスで仕事をしていたドイツ人鉱山技師のヴィルヘルムとロシア人ニナとの間に9人兄弟の1人としてソ連邦アゼルバイジャン共和国の首都・バクーで生まれる。父方の大叔父フリードリヒ・アドルフ・ゾルゲはカール・マルクスの秘書であった。3歳の時に家族とともにベルリンに移住、ベルリン大学に通う。
1930年にドイツの有力新聞社「フランクフルター・ツァイトゥング」紙の記者という隠れ蓑を与えられ、日本やイギリス、フランスなどの大国の租界が存在し、多くのスパイが動いていたといわれる中華民国の上海にソ連の諜報網を強化と指導を目的として派遣される。なおこの頃より「ラムゼイ」というコードネームを与えられている。
ゾルゲは諜報入手に大切な支配階級との接触の機会を持てずスパイとしては物足りなかったアメリ共産党員の洋画家宮城与徳に代えて支配階級との接触の機会を持つ男を必要とした。そこで彼が選んだのが上海時代に知り合い近衛内閣のブレーントラストのひとりとなっていた尾崎秀実である。彼を仲間にして日本政府に関する情報が入手できるようになった。こうしてアヴァス通信社ユーゴスラビア人特派員のブランコ・ド・ヴーケリッチ、宮城与徳、ドイツ人無線技士のマックス・クラウゼンとその妻アンナ・クラウゼンらを中心メンバーとするスパイ網を日本国内に構築し、スパイ活動を進めた。ゾルゲが報告した日本の情報は武器弾薬、航空機、輸送船などのための工場設備や生産量、鉄鋼の生産量、石油の備蓄量などに関する最新の正確な数字であった。
特別高等警察アメリ共産党党員である宮城やその周辺に内偵をかけていた。宮城や、同じアメリ共産党員で1939年に帰国した北林トモなどがその対象であった。満州憲兵隊からソ連が押収してロシア国内で保管されていた内務省警保局の「特高捜査員褒賞上申書』には、ゾルゲ事件の捜査開始は「1940年6月27日」であったと記されている。1941年9月27日の北林を皮切りに事件関係者が順次拘束・逮捕された。同年10月には、ゾルゲや尾崎らがスパイ容疑で警視庁特高一課と同外事課によって相次いで逮捕された(ゾルゲ事件)。
ゾルゲら20名は1942年に国防保安法、治安維持法違反などにより起訴され、一審によって刑が確定し、それぞれに1年半、執行猶予2年(西園寺)から死刑(ゾルゲ、尾崎)までの判決が言い渡された。ゾルゲや尾崎らは巣鴨拘置所に拘留され、日本、ドイツ両国の敗色が濃厚となってきた1944年11月7日のロシア革命記念日に巣鴨拘置所にて死刑が執行された。最後の言葉は、日本語で「これは私の最後の言葉です。ソビエト赤軍、国際共産主義万歳」と語ったと言われている。
ゾルゲが逮捕されて以降、ゾルゲがソ連のスパイであることを自供したものの、ソ連政府はかたくなにゾルゲが自国のスパイであることを否定し、その後もソ連の諜報史からゾルゲの存在は消し去られていた。しかしその後、1964年11月5日に、ゾルゲに対して「ソ連邦英雄勲章」が授与された。

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『人間臨終図巻 上巻』 山田風太郎著 徳間書店
ゾル (1895-1944) 49歳で死亡。 (一部抜粋しています)
ソ連コミンテルンのスパイでありながら、ドイツのフランクフルター・ツァイトゥング紙の新聞記者として在日ドイツ大使館や日本政府中枢に近づき、太平洋戦争前、「日本南進す、北進せず」という重大な情報をソ連に送ったリヒャルト・ゾルゲは、昭和16年10月18日、スパイ容疑で警視庁に逮捕され、昭和18年9月29日、死刑の判決を受けた。
通訳にあたった東京外語教授植田敏郎は語る。
「高田裁判長がゾルゲを前に呼び出して、
『主文、被告を死刑に処す』
と言った時に、ゾルゲはあの長身を少しわたしのほうに曲げて、
『彼は何と言いましたか』
と、小声で訊いた。わたしがそれをドイツ語に訳して告げると、彼は、
『ふふん』
と、言って、少しも取り乱した様子もなく、むしろ通訳したわたしの方がひどいショックを受けたくらいでした」
昭和19年11月7日、すでにB29が偵察の魔影を現わしている東京の空の下、巣鴨刑務所で死刑が執行された。
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午前10時20分、台が跳ね、16分後、かれの死亡が確認された。
それは第27回ロシア革命記念日にあたり、スターリンが「日本は侵略国である」という最初のぶきみな宣言を投げた日と同日のことであった。
20年後の1964年11月5日、ソ連政府はゾルゲに最高ソ連英雄勲章を与えた。
なぜなら、「日本北進せず」というゾルゲの情報により、時あたかも独ソ死闘をつづける1941年のモスクワ攻防戦にソ連極東軍が続々投入されはじめ、ついに独軍総退却の戦勢を作り出したからである。

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