じじぃの「人の死にざま_785_井上・成美」

井上成美 - あのひと検索 SPYSEE
http://spysee.jp/%E4%BA%95%E4%B8%8A%E6%88%90%E7%BE%8E/9011/
海ゆかば 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=cPkAPiJqwlg&feature=related
海行かば 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=cRB18qmyowM&feature=related
先見開明の人:仙台二高
http://www.sendainiko.com/hyaku002.html
井上成美
よほど歴史に詳しくなければ、井上成美という人のことを知らないだろう。井上成美は最後の海軍大将と呼ばれる。
井上成美は昭和初期から一貫した対米戦争反対論者であり、無謀な軍事計画にすこぶる卒直、端的に反対を表明し、さらにドイツとの軍事同盟のプランに対しては、軍務局長として、米内海相・山本次官とともに、文字通り正面切って推進論者と対決、一度はこれを撤回、流産させた。
http://www.geocities.co.jp/Bookend-Ohgai/8578/h1.html
井上成美 フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』 (一部抜粋しています)
井上成美は、日本の海軍軍人(兵37期)。最終階級は海軍大将。宮城県仙台市出身。
条約派の人脈に属し、米内光政(兵29期)、山本五十六(兵32期)らと共に日独伊三国軍事同盟、日米開戦に強硬に反対した。最後の海軍大将として知られたが、戦後はほとんど人前に出ずに生涯を終えた。
【人物像】
・青年士官時代に3年間ドイツとフランスに駐在し、その間にドイツ語とフランス語をマスターした。戦後の井上は「海軍生活において、ドイツ語は日独伊三国軍事同盟に役に立った程度だが、フランス語は、後々の勤務において外国人との付合いに使う機会が多く大変役に立った」と述懐している。戦後、英語塾を開く傍ら、高校生にフランス語の個人教授をしていた。英語については、戦後に英語塾を開いていたのは有名だが、敗戦後に進駐してきた米軍との折衝に部下を伴って赴き、部下の英語力が不十分と見た井上は自らアメリカ側と話し始め、要件を全て自分で片づけてしまうだけの英会話力を有していた。
・剛直で理論家肌の性格と切れすぎる頭脳が災いし、相手が面目を失うまで手厳しく論破したり(航空本部長時代に、マル5計画を審議する海軍首脳会議の席上で、マル5計画を提出した軍令部を徹底的に論破した。「海軍航空本部長時代」で詳述)、相手の欠点を遠慮無く口に出す(敗戦後の1950年(昭和25年)に井上の次兄の井上達三陸軍中将が死去した際、井上は葬儀に上京した。葬儀の参列者に、元海軍士官で早いうちに予備役となった者がいた。親戚の一人が「あの人はいい人なのに海軍を早く退いて・・・」と言ったのに対し、井上は言下に「(海軍を早く)辞めされられたのには、それだけの理由があったのだ」と言い放った。)ような無遠慮な点があった。海軍部内には井上を良く言わない者が多く、海兵同期生にも井上を嫌う者が少なくなかった。しかし、井上の温かい人柄、特に弱い者への優しさを伝えるエピソードも多い。

                                  • -

『人間臨終図巻 下巻』 山田風太郎著 徳間書店
井上成美(いのうえせいび) (1889-1975) 86歳で死亡。(一部抜粋しています)
太平洋戦争前、海軍次官山本五十六とともに、三国同盟を結ぶことに強硬に反対し、また海軍の伝統たる大艦巨砲主義を嘲罵した井上成美は、こと志に反して戦争がはじまると、提督として珊瑚海海戦をたたかい、そのあと江田島海軍兵学校の校長となった。このとき彼が、兵学校に飾ってあった歴代の海軍大将の写真をみな撤去させた話は有名だ。彼は軍人の出世主義を唾棄(だき)したのである。
彼は異常なまでに清冽(せいれつ)で、また苛烈な性格の武人であった。
敗戦時は56歳であったが、そのとき以来、横須賀の山上にあるあばら家に隠棲(いんせい)して、ふたたび世に出ようとしなかった。
彼の妻は昭和7年、彼が43歳のとき結核で死に、以後彼は独身で、終戦後はただ一人の娘と暮らしたが、その娘も海軍軍医たる夫を戦争で失い、彼女自身も昭和23年やはり結核で死んでからは、井上は完全に孤独となり、以後近所の子供たちに英語を教えて暮した。
江田島の教え子たちは、井の上を世に出そうと、また経済援助を申し出たが、海軍軍人として亡国の運命を救えなかったという痛恨でみずからを罰した彼は、一切受けつけなかった。このころ彼の持っていた下着といえば、古いゆかたを裂いて作った数本のふんどしと、つぎのあたったパンツ2枚だけであったといわれる。毎年8月15日は、1日絶食して、端座して遠い海を眺めるのをならいとした。英語塾の教え子たちは、のちにこの「最後の海軍大将」から、英語ばかりでなく人間の生き方を学んだ、といった。
その井上も、昭和28年64歳のとき、彼を思慕する53歳の女性と再婚した。しかし、清貧というより極貧の生活はつづき、そのうち妻は鬱病にかかり、彼の孤高肅殺たる生活は変わらなかった。
昭和50年12月9日、井上は満86歳の誕生日を迎えた。
12月15日、もはや自分一人では立つこともできないほど老衰した井上は、この日の夕方、いかにしてかひとりで庭に出て、寒風の中に立ちつくして海を見ていた。そのあと寝床に戻った。
「海へ……江田島へ」
というのが、彼の最後の言葉であった。午後5時55分。

                                  • -

井上成美 Google 検索
http://www.google.co.jp/images?sourceid=navclient&aq=f&oq=%E4%BA%95%E4%B8%8A%E6%88%90%E7%BE%8E&hl=ja&ie=UTF-8&rlz=1T4GZAZ_jaJP276JP276&q=%E4%BA%95%E4%B8%8A%E6%88%90%E7%BE%8E&gs_upl=0l0l6l851394lllllllllll0&aqi=g5s1&oi=image_result_group&sa=X