じじぃの「人の死にざま_1054_荻野・久作」

荻野久作 - あのひと検索 SPYSEE
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生まれくる命 そして母のために 〜荻野久作の受胎期発見〜 動画 Youku
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竹山病院 - 荻野久作博士について
1929年(昭和4年)まで足かけ8年間病理学教室に在籍。一民間市中病院の産婦人科臨床医でありながら偉大な足跡を残した、その主要な業績は、排卵、受胎の時期に関するいわゆる「荻野学説」の提唱であり、また他方、子宮頚癌に対する「岡林術式荻野変法」の確立である。
http://www.takeyama-hsp.com/about_ogino.html
荻野久作 ウィキペディアWikipedia)より
荻野久作(おぎのきゅうさく)は産婦人科医、医学博士である。女性の月経周期と妊娠との関連性を研究した先駆的業績で知られる。
【経歴】
愛知県八名郡下川村(のち豊橋市下条東町)出身。父の姓は中村だが、1901年(明治34年)に荻野忍の養子となり、荻野姓となる。
旧制愛知第四中学校(のち時習館高校)、日本中学、一高などを経て1909年(明治42年)に東京帝国大学医学部を卒業。しばらく同大病院で勤務した後1912年に新潟市の竹山病院産婦人科部長に就任するとともに新潟大学で研究を続ける。以後生涯のほとんどを新潟にて送り、1951年(昭和26年)に新潟市名誉市民の称号を受ける。
1930年(昭和5年)2月22日に現地の学会誌(ドイツの『婦人科中央雑誌』(1930年第22巻2号))に『排卵と受胎日』というタイトルで発表された。その後日本婦人科学会雑誌第19巻6号に掲載された。
ところがオーストリア人のヘルマン・クナウス(Hermann Knaus)が久作の手法の目的を逆転させて避妊法として使うことを提唱する。これは当時から避妊法としては他の手段と比べて非常に不確実な手法であることがわかっていたので久作は反対意見を表明する。しかし不本意にもこの避妊法は後にオギノ式と呼ばれるようになる。もっと確実な避妊法があるにもかかわらず自身の学説を安易な避妊法として使い、結果として望まない妊娠をして人工妊娠中絶により失われる命のあることに久作は憤りを感じていた。そして、むしろ不妊治療に役立てて欲しいと主張した。
1975年(昭和50年)新潟市の自宅にて死去。最晩年まで医師として現役を貫いた。
新潟市の自宅前の通りは、没後に新潟市民の運動により、その功績を讃えて「オギノ通り」と名づけられている。

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朝日新聞社 100人の20世紀 上 1999年発行
荻野久作 (1882 - 1975)  【執筆者】湯瀬里佐 (一部抜粋しています)
女性の排卵は卵巣から飛び出し、卵管に入る。これが排卵だ。そこ精子がくると受精し、妊娠する。
そこまでは分かっていた。しかし排卵がいつ起こるか分からない。17世紀に卵巣内の卵子が発見されて以来、論争が続いていた。
「月経は発情期のようなもので、排卵も同時に起こる」
「ウサギと同様、性交するとその刺激で排卵する」
「月経初日の14日から16日目に起こる」 「8日から14日目である」
排卵日は決まっていない」……
荻野博士は「次の月経の12日から16日前に起こる」と唱えた。多くの学者が「前回の月経の何日目か」で争っているときに、「次回の月経」からさかのぼって計算したところがミソだ。臨床例を積み重ねて得たアイデアだった。
論文は日本婦人科学会の懸賞に当選し、英語訳も発表された。しかし、新潟の民間病院の勤務医だった博士の学説が、海外で注目されるのはもう少しあとのことだ。
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日本家族計画協会が現在出版している『改訂・最新受胎調節法』は、理想的な避妊法の条件として8項目をあげている。
(2)性感を害しない (3)無害 (7)費用があまりかからない (8)失敗しても妊娠しても胎児に悪影響を与えない
オギノ式はそうした条件では満点なのだが、(1)効果が確実、(5)実地が容易、の2項目に難点があった。
次の月経を基準に不妊期をはじき出すため、周期が狂えば失敗につながる。周期誤差を計算するために、あらかじめ半年間以上カレンダーをつけなければならない。正確を期すほど安全日は短くなり、有効に利用できる程度に周期が安定している女性は5人に1人しかいない。
学説の正しさと避妊法の効果は別問題だった。
1968年7月。
ローマ法王パウロ6世は、決断を迫られていた。
カトリックの歴史で初めて、ピルやコンドームを認めるかどうか。
世界中から集められた神学者や医師、信者夫婦らの諮問委員会が、避妊容認の多数意見を答申していた。「法王の判断も緩やかなものになるのではないか」とささやかれた。
しかし結局、法王はピルやコンドームを退けた。
「直接に受胎を妨げる手段の使用は、常に許されないと排斥します」
バチカン公認の避妊法――。
オギノ式は再び脚光を浴びた。仏教徒の博士には関心のないことだった。そもそも避妊法を開発するつもりはなかったのだ。
1975年1月。
博士は92歳で死亡した。
ずっと新潟市の竹山病院に勤めた。腕まくりをしなくてもすむように、そでを取り外せるワイシャツを特注していた。右利きなのに左手でマッチをすった。「メスを握る者は両手が使えなくてはいけない」。博士がそういうのを、事務長の吉井祐治さんは何度か聞いた。
大学からの誘いは断った。80歳を過ぎても手術にあたり、90歳近くまで診察を続けた。

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