じじぃの「人の死にざま_1052_L・ルチアーノ」

ラッキー・ルチアーノ - あのひと検索 SPYSEE
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History of the New York Mafia ( 1/5 ) 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=7AWQpVMY1a0
History of the New York Mafia ( 2/5 ) 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=Gb2rYdDs9ek
ラッキー・ルチアーノ ウィキペディアWikipedia)より
ラッキー・ルチアーノことチャールズ・ルチアーノ(Charles "Lucky" Luciano, 本名 サルヴァトーレ・ルカーニア)はアメリカ合衆国のイタリア系犯罪組織マフィア(コーサ・ノストラ)の最高幹部で組織改革者。犯罪シンジケートの立案者・実力者でマフィア史上最大の大物といわれる人物。
マフィアの古いしきたりをやめてビジネスとして組織し、人種にこだわらずにアメリカ的な合理性を追求して勢力を拡大した。
イタリアへ追放されてからは麻薬コネクションを形成し、暗黒街を大いに富ませた。
【追放後】
アメリカ追放後も、レバノンの密輸業者と連絡し、トルコで生産されている非合法アヘンをレバノンモルヒネに加工させ、トロール船でイタリア沿岸部、または、フランスのマルセイユに運びヘロインに精製させていた。この意味で、1970年代のパレスチナゲリラの分派たちに資金作りの方法を教えた恩人と言える。
勿論、麻薬に関してはコルシカギャングが以前より地中海で幅を利かせていたが、米本土とのコネクションを持ち、イタリアとアメリカの間に麻薬密輸ルートを築き上げ、マフィアの勢力はさらに拡大する結果となった。中継基地のキューバも手中に収めている点でルチアーノは間違いなく1960年代の麻薬王となった。この麻薬はマフィアの資金源として彼の権威を絶大なものとした。さらにその資金を、ミラノの弁護士で銀行家のミケーレ・シンドーナを通じてマネーロンダリングさせていた。
その後も、シシリー・マフィアとカモッラとの仲をとりもったりするなど、常にイタリアとアメリカの犯罪組織に大きな影響を与え続けたが、生きてアメリカの土を踏むことはなかった。

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朝日新聞社 100人の20世紀 上 1999年発行
ラッキー・ルチアーノ (1897-1962)  【執筆者】鈴木啓一 (一部抜粋しています)
ニューヨーク・マンハッタンの公文書館に、1枚の乗船名簿が残されていた。1907年10月28日、ナポリからニューヨークに入港した「ローマ号」。イタリアから大西洋を渡った膨大な移民の中に、「サルヴァトーレ・ルカーニア、9歳」とある。ルチアーノの本名だ。母親と、6歳の妹の名前もある。
最初に住んだ1番街14丁目は、いまでは中国人や黒人たちの雑居地区になっている。当時はイタリア系移民であふれかえっていたという。
9歳から38歳までの動向は、当時の新聞記事やマフィア史の文献でしか確認できなかった。
麻薬密売で18歳のとき、刑務所に送られた。その後は塀の中に落ちない。賭博、盗品故買、密造酒製造、贈賄、殺人、23階逮捕され、すべて「証拠不十分」で釈放された。
この間、対立組織に捕まってリンチを受けたことがある。死んだと思われ放り出された。息を吹き返した彼は、「ラッキー」の名を得る。
31年4月、対立組織のボスと組み、自らのボスを殺す。5ヵ月後、手を組んだばかりの新しいボスを殺した。本人はトイレに行ったり、ニューヨークを離れていたりして、直接は手を下していない。
一夜で40人のマフィアが暗殺された9月10日、ニューヨーク・マフィアの頂点に立った。関与した殺人は500件にのぼるといわれる。
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眼下にナポリ港が広がり、遠くポンペイカプリ島を望む高台のペントハウスで、元バレリーナの愛人とともに戦後のほとんどの時間を過ごした。ダックスフント2匹を連れて毎朝、近くの食料品店にミネラルウオーターを買いに行った。店の夫婦は「英国風の服を着て、大企業の社長さんのようだった」と振り返る。
港に近いレストラン「カリフォルニア」をひいきにした。パスタもあれば、ハンバーガーもある。「米伊折衷」の店だ。ウエーターのラファエルさんは結婚式のとき、運転手つきのアルファロメオを貸してもらった。「スープもコーヒーもアメリカ風が好みだった。米軍の将軍とよく食事をしていた」
ナポリには軍の基地がある。軍とのパイプは公然だった。
米国から15日おきに客船でやってくるシチリア出身の「友人」たちとの会食も、この店だった。
戦後の活動で確認されているのは、57年にシチリアパレルモで開かれた「会議」を主宰したことだ。
連合軍の総司令部が置かれたこともあるホテル「パルメ」での会議には、米国とシチリアのマフィア約30人が集まった。ルチアーノが乾杯の音頭をとった。ホテルのマネジャーは「たしかにそんなこともあった」としか語らない。
彼の死後、出席者のうち17人が逮捕され、シチリアマフィアを介した米国への麻薬密輸ルートが、この席で談合されたことが判明する。
彼はナポリ空港で急死する。死因は心臓発作。現地紙は「半生を映画化する契約を契約を結ぶため、ハリウッドから来るプロデューサーを出迎えようとしていた」と報じた。結局、後世に「自伝」は残されなかった。
ルチアーノと面識のあった人で、今回話を聞くことができたのは8人だ。刑務所の中で何を画策したのか、シチリア上陸にどう関与したのか、戦後のナポリで何をしていたのか。ルチアーノの言葉を聞いたことのある人間はいなかった。
自分が何をしたのか、何をしなかったのか。
彼は何も語らなかったという。

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