じじぃの「人の死にざま_1047_大上・宇市」

大上宇市 - あのひと検索 SPYSEE
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大上宇市 ホタルの絵 画像
http://info.hitohaku.jp/blog/DSCN1267a-thumb.jpg
兵庫県人と自然の博物館
昆虫担当のY氏が楽しそうに古文書?を見ていました。
よく見ると、トンボがたくさん....
http://www.nat-museum.sanda.hyogo.jp/blog/2008/09/post_144/
新宮出身 博物学者 大上宇市の寄稿集を発行
新宮町出身の博物学者、大上宇市(おおうえういち)(1865〜1941)の研究成果などを集めた「大上宇市と博物学 学術雑誌寄稿集」=写真(省略)=が同町教委から発行された。大上の寄稿文などが1冊にまとめられるのは初めてといい、幻の動物・ツチノコに関する考察も収められている。
大上は動・植物学、農業、昆虫、地学、理学、博物学など自然界にかかわる幅広い分野について少年期から独自に研究。明治後期には西播磨などにしか生息しない植物「コヤスノキ」を発見し、世界的に注目された。
http://www.geocities.co.jp/WallStreet-Bull/9711/2004/k040622-3.htm
『二列目の人生 隠れた異才たち』 池内紀/著 晶文社 2003年発行
大上宇市 もうひとりの熊楠 (一部抜粋しています)
小谷さんが写真を指さした。晩年の大上宇市を写したもので、着流し姿の老人が木に下に立っている。いかにもガンコそうな顔である。太い帯の前方、右腰に横長のタバコ入れが見える。
「ほら、ここんところにキセルとタバコをつけとられるでしょう。前にタバコ入れをぶら下げるのを、こちらでは”ヒマ人”といいましてね」
その名で人々はいやしんだ。農作業は苗取り、しろかき、草取り、刈り入れ、すべて腰を折り、かがんで働く。前にタバコをぶら下げていては仕事にならない。”ヒマ人”は道楽者のいいかえでもあった。
土地の年寄りの思い出にのこっている。牛を追って田んぼを耕していると、宇市さんがやってきた。畔に腰を下ろし、ただじっとながめている。そうかとおもうと、耕したあとを歩いてまわって、土の深さを測ったり、指で土をつぶしたりしている。土中の虫を調べている。
「自分の家の百姓仕事もほっといて、何をしよってんじゃいな」
”ヒマ人”の酔興ごと。もっぱら奇人でとおっていた。急な雨になり、家の庭に干してあるモミがぬれても、いぜんとして土をいじくっていて動こうとしない。
「はよ家に帰らんかいな」
狂人という者もいた。
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タキミシダは牧野富太郎が学名を定めた。リュウキュウコザクラはどうか。帝大教授は礼状にそえて、ある種の感慨をこめて書いている。桜草科で琉球地方の産とは知っていたが、「未だ知らざりし本島内に出らんとは」。
これがきっかけとなったのだろう。牧野富太郎と文通がはじまった。ともに学歴がないために学界から冷飯をくわされつづけた同士である。大正10年(1921)12月、富太郎来訪。篠首村のあばら家は、すでにそのころ、膨大な標本や写本、蔵書で身動きならないまでになっていた。2人は、そのすきまにふとんを敷いて寝た。
そのころ、宇市はもっぱら菌類の研究に没頭していた。仙台の二高教授で、蘚苔(せんたい)学の権威であった安田篤の知己を得たのも大きかった。『二千菌譜』のうちの木耳(きくらげ)科・赤木耳科・鼠茸科百一種を手はじめに、次々とまとめていった。変形菌、粘菌類に及んで、南方熊楠に手紙を出した。和歌山県田辺と播磨新宮とのあいだに、学名入りのハガキや手紙が往復した。
大正13年(1924)、『二千菌譜』全9巻の完成を目前にして安田篤の急逝にあい宇市はいたく落胆した。同年、播磨地方が大早魃にみまわれた。市井の学者は克明に記録にとどめている。
「一世ニ一度ノ大早ナリシ。飲料水ニサヘ差シ支ヘル者多ク、八月ヨリ嗜眠脳膜炎ガ流行スルヤラ農界ノ惨状マサニ堪ヘザル惨状ナレバ後日参考ニ見聞セシ大畧ヲ記録シ置ク」
この夜、町営志んぐ荘に泊った。揖保川に面していて、眼下に太い水の帯がくねるようにすべっていく。目の底にはまだ、いましがた見たばかりのぶ厚い紙の束がしみついていた。大上宇市は牧野富太郎から『欧州植物目録』を借り受けて、全433ページ、ラテン語の学名2万余りを筆写した。『直物雑誌』『有用植物目録』『日本益虫目録』『日本千虫図解』……。しだいに写本がふえていったのは、本代に困窮したからだろう。やがて神を買うのにも不自由したのか、鉛筆で書いた自分の著作を再利用して墨で書いた。
昭和に入って床につくことが多くなった。そんななかで一時、著作刊行の動きもあったのかもしれない。メモ用紙に「同情者」として名前を列挙し、一人一人に心覚えをつけている。某校長は何かと考えてくれたが、郡視官を退いてのちは話が立ち消えになった。某農学校教師は「余程同情ヲ加ヘテ」くれた。ある原稿はその人の世話で活版所までいったが、「出版費ノ出所ガナイ」ので、そのまま反故になった――。
死の2年前の『でたらめ雑記』が最後の著作ということになる。「あほう坊主、大上宇市乱筆」と添え書きがついている。紙を買うお金もすでになかったのか、幼い孫の答案用紙を使い、裏だけでなく、表の答案の上にも小さい字で書きこんでいる。
昭和15年(1940)、60年ちかくにわたってつづけてきた気象観察を中断。目録の最後の文字は乱れていて判読ができない。
翌16年5月21日、死去、数えで77歳だった。

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