じじぃの「人の死にざま_1025_源・義仲」

源義仲 - あのひと検索 SPYSEE
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LEGENDARY HEROES vol.18 源 義仲MV 動画 YouTube
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義仲の里 動画 YouTube
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巴御前 画像
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源義仲 ウィキペディアWikipedia)より
源義仲は、平安時代末期の信濃源氏の武将。河内源氏の一族、源義賢の次男。源頼朝義経とは従兄弟にあたる。木曾義仲の名でも知られる。『平家物語』においては朝日将軍(旭将軍とも)と称された。
以仁王の令旨によって挙兵、都から逃れたその遺児を北陸宮として擁護し、倶利伽羅峠の戦い平氏の大軍を破って上洛する。連年の飢饉と平氏の狼藉によって荒廃した都の治安回復を期待されたが、治安維持の失敗と大軍が都に居座ったことによる食糧事情の悪化、皇位継承への介入などにより後白河法皇と不和となる。法住寺合戦に及んで法皇後鳥羽天皇を幽閉して征東大将軍となるが、源頼朝が送った源範頼義経の軍勢により、粟津の戦いで討たれた。
巴御前 ウィキペディアWikipedia)より
巴御前(生没年不詳)は、平安時代末期の信濃国の武将とされる女性。字は鞆、鞆絵とも。『平家物語』によれば、源義仲の便女。『源平闘諍録』によれば、樋口兼光の娘。『源平盛衰記』によれば、中原兼遠の娘、樋口兼光今井兼平の妹で、源義仲の妾。よく妻と誤記されるが、源義仲の妻は巴御前ではない。

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『人間臨終図巻 上巻』 山田風太郎著 徳間書店
木曽義仲(きそよしなか) (1154-1184) 30歳で死亡。 (一部抜粋しています)
寿永2年7月、義仲は平家を追って京にはいり、朝日将軍と称したが、山猿のごとき6万の木曽兵は狼藉(ろうぜき)をきわめて、京童(きょうわらべ)の総スカンを食い、3年1月、同じ源家の義経の攻撃を迎えるに至った。
1月20日、木曽勢は破れ、義仲は東へ落ちていったが、主従わずかに5騎となった。その5騎の中に、愛妾巴御前(ともえごぜん)がいた。
義仲は巴に、「お前は女だから逃げよ、義仲の最期に女を道連れにしたといわれては名にかかわる」といった。大力無双の美女巴は憤然として、追撃勢の中に1騎駈けいり、敵将を馬上からひきずり寄せ、その首をねじ切ってから東南へ落ちていった。
粟津(あわづ)で義仲は、家来今井四郎兼平と2人になり、今井は自分がふせいでいる間にあの松原で自害したまえと勧め、馬を返して追撃軍と血戦した。
「木曽殿はただ一騎、粟津の松原へぞ駆け給うが、正月廿一日、入あい(夕刻)ばかりの事なるに、薄氷(うすごおり)張りたりけり。深田ありとも知らずして、馬をさっとうち入れたれば、馬の頭(かしら)も見えざりけり。・・・。今井がゆくえのおぼつかなさにふりあおぎ給える内兜(うちかぶと)を、三浦の石田次郎為久、追っかかって、よっ引いて、ひやうふっと射る。痛手なれば真っ向を馬の頭に押しあててうつぶし給えるところに、石田が郎党二人落ち合うて、ついに木曽殿の首をばとってけり」(『平家物語』)
それを知った今井四郎兼平は、太刀の先を口にふくみ、馬からさかさまに落ちて自害した。

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