【歴史ミステリー】平家の末裔・安徳天皇は壇ノ浦合戦後も生きていた!? 動画 YouTube
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安徳天皇 コトバンクより
安徳天皇(あんとくてんのう、 1178‐1185(治承2 - 文治1))
第81代に数えられる天皇。在位1180‐85年。
名は言仁。高倉天皇の第1皇子として平重盛の六波羅邸で誕生。母は平清盛の娘建礼門院徳子。翌月立太子。80年(治承4)即位。同年6月摂津国福原に遷都したが、11月京都に帰る。83年(寿永2)7月木曾義仲入京のさい、平氏に擁されて西海に落ち、大宰府・讃岐国屋島などにのがれたが、85年3月長門国壇ノ浦で平氏一門とともに入水・死亡。
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『怨霊になった天皇』 竹田恒泰/著 小学館文庫 2009年発行
悲運の天皇 (一部抜粋しています)
平安時代末期に3歳にして即位した第81代安徳天皇は、悲劇の天皇としてあまりにも有名である。第80代高倉天皇の第1皇子として治承2年(1178)に誕生した。母親は平清盛の娘で中宮の徳子。したがって安徳天皇は平清盛の孫ということになる。
清盛は高倉天皇に退位を迫り、強引に自分の孫を天皇の位に就かせた。安徳天皇の即位は、清盛が天皇の外祖父になることを意味し、これは清盛の長年の願望であった。「平氏の天皇」が誕生することで、平氏は政権基盤をさらに強固なものにすると思われた。
しかし、それから僅か数年で平氏が滅びることになるとはだれが予想したろう。安徳天皇の即位間もなく、以仁王と源頼政が挙兵して既に内乱の様相を呈し、源平の合戦が始まる。寿永2年(1183)には源義仲が越中、続けて加賀で平氏を破って京都に迫った。結局平宗盛は幼い帝を擁して、三種の神器と共に西走することになった。それから2年の平氏は、一の谷と屋島の戦で次々と破れ、元暦2年(1185)3月24日、ついに壇ノ浦(現在の山口県下関市)の海上で源平最後の決戦を迎える。これが「壇ノ浦の合戦」である。
潮流の速度と方向を利用した源氏が優勢となり、源義経の奇策もあり、平氏の敗色が濃くなった。全軍を総指揮していた平知盛以下、平氏一門の武将はことごとく討ち死にし、平家は滅亡した。殲滅戦の中、未だ8歳の安徳天皇は、三種の神器もろとも二位尼時子(平清盛の妻)に抱かれて入水、天皇崩御となった。