じじぃの「人の生きざま_171_坂村・健」

坂村健 - あのひと検索 SPYSEE
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トロン組み込み技術、人材養成の意義を強調−−坂村健・東大教授が講演 毎日動画
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BTRON -The fastest OS- Short ver. 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=MqfXwEHlYZQ
Childhood's End 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=jrUndS4vCmo
坂村健 ウィキペディアWikipedia)より
坂村健(さかむらけん、1951年7月25日 - )は、日本の情報工学者。東京大学教授。専門は電脳建築学情報工学。工学博士(慶應義塾大学、1979年)。東京都出身。
コンピューターアーキテクチャTRONプロジェクト」の提唱者でプロジェクトリーダー。
TRONプロジェクト】
TRONプロジェクトは、当初、次のようなサブプロジェクトを推進した。まずリアルタイム組み込みOSのITRON、次いでビジネス向けのBTRON、大規模環境を想定したMTRON、通信インフラ用のCTRON、ハードウェアであるTRONCHIPである。TRONCHIPは、RISC型・CISC型について、コンピュータ設計アーキテクチャー論争が盛んになったころ構想したもの。RISCをよしとする論が優勢な中で、コンパイラが最適化をしやすい直交性の高さと、応用を睨んだ高機能命令を備え、SISCと呼んでいた。32ビット型を基本とするコマンド体系を中心に据え、64ビット拡張も狙っていた。
リアルタイム組み込みOSであるITRONは、日立製作所のHI68Kなどの実装が作られ、また、より組み込み向けに縮小されたμITRON規格が作られた。BTRONでは、コンピュータに伴ってキーボードが日本に広く普及する機会と睨み、人間工学の視点に立ったトロンキーボードを考案するが、既にタイプライタ等で一般化していたデファクトスタンダードはゆるがなかった(TRONのものに似たキーボードには、日本電気が文豪に搭載するなどしたM式キーボードや、富士通OASYS用に試作したものなどがある)。
幼年期の終り ウィキペディアWikipedia)より
幼年期の終り』(Childhood's End) はイギリスのSF作家、アーサー・C・クラークの長編小説。1953年に発表され、クラークの代表作としてのみならず、SF史上の傑作として広く愛読されている。
【内容】
幼年期の終り』はプロローグおよび三つの部で構成されている。
・プロローグ
 米ソの宇宙開発競争が熾烈さを増す20世紀後半のある日、巨大な円盤状の宇宙船多数が世界各国の首都上空に出現する。
・第2部「黄金時代」
 第1部より50年後。それまで長きにわたって各地の大都市上空にあったオーバーロードの宇宙船は、ニューヨーク上空のものを除いて忽然と姿を消す。
・第3部「最後の世代」
 やがて最後の時が来た。地球を脱出するオーバーロードの宇宙船に向って、ただ一人地球に残ったジャンは、地球の悲壮で華麗な滅亡の様子を実況する。
評価
発表から2ヵ月の間に21万部の売上を記録し、また批評家たちからも好意的な評価を得た。また、クラークのファンの多くは「幼年期の終り」を彼の最高傑作だと考えているという。

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文藝春秋』 特集 「名著再発見 60歳になったら読み返したい41冊」 2012年11月号
幼年期の終り」 アーサー・C・クラーク 【執筆者】坂村健東京大学大学院情報工学 (一部抜粋しています)
原題は『Childhood's End』。書かれたのは1953年。冷戦時代。科学時代の幕開け。人類、地球等を含む多くのものの「幼年期の終り」を描く重層的なテーマ。
これを私が最初に読んだ1969年は『2001年宇宙の旅』が映画化された翌年。見た事もない映像。NASAIBMパンナムなど当時の最先端の国家、民間研究所、企業の協力によるあまりにリアルなシーンがアポロ計画の月面着陸と重なり私を興奮させた。宇宙規模の壮大な物語は若い私を夢中にさせクラークの他の作品に自然と向かわせた。そして出会ったのが本書。
しかしその読書体験が、ある意味私のSF読者としての「幼年期の終り」になる。今でもコンピュータグラフィックスを駆使したいためだけの派手なガジェット登場とか、無理目のストーリーのための「超常現象」とか、必然性のないSFはあるが当時も多かった。そういうものと『幼年期の終り』は、まったく違った。スターリーを追うだけでない小説との初めての出会い。SFという枠組みでしか書けない物語――であると同時に主題の独自性と圧倒的な視野の広さ。ファンタジーや宗教説話の枠組みでこの主題が語り直せるかと思考実験してみれば、そのSF性が分かる。究極のSFでありながらスケールのあまりの大きさにいまだ映画化されていないのもそのためだろう。
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三島由紀夫を筆頭に多くの文化人が『幼年期の終り』に影響を受けたというのは最近知った。今読も直してみても、この作品の中で生まれた主題が多くの変奏曲となってSFを越え様々な文化の分野に身え隠れすることに驚かされる。
SF性の根本は、いわば「ちゃぶ台返し」。単なるストーリーの「どんでん返し」を超えて、人々の常識や、宗教や、社会や――どれだけ大きなちゃぶ台をひっ繰り返すかが、その真骨頂。『幼年期の終り』では、恐ろしく大きなちゃぶ台が何回もひっ繰り返る。いまでこそ世界的に評価の高い本作だが、宗教までちゃぶ台扱いしたせいか欧米での評価は当初割れだ。にもかかわらず日本のSF者には好まれた。優しくも悲しい眼差しで締める静謐なラストが日本人好みだからだろう。人類の未来がどうなろおうと清々しさすら感じる。
今読み直してみると本書の偉大さが少しは知恵がついたおかげかさらに良くわかる。今のこの閉塞感で溢れた日本。低レベルの国際関係。世界を見れば人類のあまりのおろかさ。コントロールできない民衆。国家の崩壊・民主主義の限界。超越するなにかがないと人類はこのままなのだろうか。

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