じじぃの「人の死にざま_1046_R・ゴダード」

ロバート・ゴダード - あのひと検索 SPYSEE
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Robert Goddard Archival Footage 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=2TRkiQGbxC8
Rocket Experiments By Dr Robert H Goddard (1926-1945) 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=Pq7WmrTbi-Q
Goddard, Robert Hutchings (1882-1945)
http://www.daviddarling.info/encyclopedia/G/Goddard.html
ロバート・ゴダード ウィキペディアWikipedia)より
ロバート・ハッチングズ・ゴダード(Robert Hutchings Goddard, 1882年10月5日 - 1945年8月10日)は、アメリカの発明家・ロケット研究者。「ロケットの父」と呼ばれる。ロケット工学草創期における重要な開拓者の一人だが、彼自身の非社交的な性格もあって、生前に業績が評価されることはなかった。
【生涯】
ゴダードマサチューセッツ州ウースターで生まれ、16歳でH・G・ウェルズのSF古典『宇宙戦争』を読むことで宇宙に対する興味を持ち始めた。クラーク大学とプリンストン大学に入学し、1914年までに彼はスミソニアン協会からの財政援助を受けてロケット・モーターの設計に取り組んだ。1919年には月飛行の可能性について執筆した。
1926年3月16日にマサチューセッツ州オーバーンで最初の液体燃料ロケットを打ち上げた。その歴史的な出来事を彼は日記に簡潔に記入した。「液体推薬を使用するロケットの最初の飛行は昨日エフィーおばさんの農場で行われた」。“ネル”と名付けられたロケットは人間の腕くらいのサイズで、2.5秒間に41フィート上昇した。それは液体燃料推進の可能性を実証した重要な実験だった。
彼の研究は時代を先取りしすぎていたため、同時代人からは変人扱いされ、しばしば嘲笑の対象になった。 ゴダード1920年の論文『高々度に達する方法』で、ロケットは真空の宇宙空間でも推進できると主張したことに対し、ニューヨーク・タイムズ紙は、物質が存在しない真空中ではロケットが飛行できないことを「誰でも知っている」とし、ゴダードが「高校で習う知識を持っていないようだ」と酷評した。ゴダードは他の科学者やメディアから受けた不当な評価のため、他人を信用しないようになり、死去するまで研究は単独で行った。彼の死後、ロケットの重要性が認識されるにつれゴダードの業績が脚光を浴び、1959年に設立されたゴダード宇宙飛行センターは彼にちなんで命名された。

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アシモフの科学者伝』 アイザック アシモフ/著 小学館 1995年発行
ロバート・ハッチングズ・ゴダード――宇宙時代を開いた人 (一部抜粋しています)
ガソリンは液体酸素とまじりあい、燃え始めた。ロケットは飛び上がり、大気をつらぬいて上昇した。短い時間のうちに燃料は使い尽くされたが、ロケットはさらにのぼり続け、頂点に達してから落ちた。
これは、どこで起こったことなのか。1950年代に、ケープカナベラルで起こったことなのか。
いや、そうではない。これはマサチューセッツ州オーバーンの、雪におおわれた畑で起こったことである。日付は、1926年3月26日であった。この日、最初の液体燃料ロケットが天に向けて打ち上げられたのだが、この実験をおこなったのはロバート・ハッチングズ・ゴダードという科学者だった。
ロケットはわずか60メートルしか飛ばなかった。速度も、時速100キロほどにしかならなかった。
が、この実験は、ライト兄弟キティホークで行った世界最初の飛行機テストと同じくらいに重要なものだったのだ。けれども、誰ひとりとして、この実験に注目しなかった。ゴダードは、独力でアメリカのロケットを作りあげたのだが、一般の人たちには知られぬままで死んだのである。
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1923年、ゴダードは、燃料としてガソリンと液体酸素を使う世界最初の液体燃料ロケットのエンジンをテストした。そして、1926年には、自分で作った最初のロケットを打ち上げる。彼がそのロケットの横に立っているところを、彼の妻が写真にとっている。
ロケットは、約1.2メートルの高さで、直径は15センチほどだった。全体が子どものジャングル・ジムに似た枠組に取りつけられていた。ケープカナベラルの巨大なロケットたちの、おじいさんい相当するものである。
ゴダードは、やっとのことでスミソニアン博物館から数千ドルの研究費を受け、研究を続けた。
1929年7月、彼はマサチューセッツ州ウースターの近くで、もっと大きなロケットを打ち上げ、最初のロケットよりも、さらに高いところまで飛んだ。もっと重要なのは、このロケットに気圧計と温度計と、その2つを写真にとるための小さなカメラとが積んであった。これは、計器を積んだ世界最初のロケットであった。
しかし、そのとき、ゴダードは、ごたごたに巻き込まれた。彼は、そのころすでに「気がふれている」という、ささやかな評判を立てられていた。「月に到達できると信じている」というのだ。これは、彼にとっては、苦痛であった。なぜなら、彼は自己宣伝をひどくきらい、主として上層大気の研究に興味を持っていたからである。
この2度目のロケット実験の結果、彼は警察に呼び出された。警察は「マサチューセッツ州内では2度とロケット実験をしてなならない」と、彼にいいつけた。
さいわいなことに、ダニエル・グッゲンハイムという慈善家が、ゴダードにいくらかの資金を出してくれた。そのおかげで、彼はニューメキシコ州のさびしいところに、実験場を開くことができた。ここで、彼はもっと大きなロケットを作り、数多くのアイデアをテストし、それらのアイデアは、いまも、あらゆるロケットに使われている。たとえば彼は適切な形の燃料室も設計したし、ガソリンを超低温の液体酸素といっしょに燃やすことによって、急激な燃焼のさいにも、燃焼室の壁を冷やせるようにした。彼はまた、ロケットの機体から噴射される燃焼ガスのスピードを、きわめて大きくすることが根本的な問題であることを、すぐに見てとった。
1930年から1935年にかけて、ゴダードはいくつものロケットを打ち上げたが、それらのスピードは時速885キロに達し、到達高度は2.5キロほどになった。彼は、ロケットの飛行方向を制御するための舵とり装置や、ロケットを正しい方向に飛ばせるためのジャイロスコープなども開発し、多段式ロケットのアイデアについても特許をとった。
しかし、アメリカの政府は彼の研究に対して、一度も関心を示さなかった。第二次世界大戦のときにだけ、政府は彼に予算を与えたが、それは、航空母艦から飛び立つ海軍機の離陸補助小型ロケットを設計するだけのお金にすぎなかった。
一方ドイツでは、一団の科学者たちが、ゴダードの原理にもとづいた大型ロケットを開発し、V2号ロケットを作りあげた。もし、これがもっと早く完成していたら、ナチスは戦争に勝ったかもしれない。
戦争が終わってから、ドイツのロケット専門家たちは、アメリカに連れてこられたが、ロケット工学について質問されたとき、彼らは、驚いて目を見張った。なぜアメリカ人たちは、そのような質問をゴダードにしなかったのか、むしろ、彼らのほうがその理由を知りたがった。
そのときは、もはや遅すぎた。ゴダードは、 1945年8月10日、原子力の夜明けのころに死んでいた。

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