じじぃの「人の死にざま_997_志筑・忠雄」

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志筑忠雄 | 江戸の科学者列伝 大人の科学.net
引力、重力、遠心力、動力、速力、真空……。物理学や宇宙を説明するのに使われるおなじみの科学用語である。こうした用語がなければ現代の物理学的世界像や宇宙像を理解することはほとんど不可能になる。
それほど重要な用語なのに、江戸時代中期まで日本語の語彙にはなかった。いずれもその時代に発明された新語だったのである。
http://otonanokagaku.net/issue/edo/vol1/index.html
志筑忠雄 ウィキペディアWikipedia)』より
志筑忠雄(しづきただお、宝暦10年(1760年) - 文化3年7月3日(1806年8月16日))は、江戸時代長崎の蘭学者、阿蘭陀稽古通詞(のち辞職)。
【概要】
天文、物理、地理誌、海外事情、オランダ語、オランダ文法学等の分野で著述を成した。
生涯にわたって蘭書翻訳に熱中する一方で、多病であったようである。大槻玄幹(1785年 - 1837年)、杉田玄白、新宮凉亭(1787年 - 1854年)らの諸著述において、志筑は若くして病気を理由に阿蘭陀稽古通詞を辞し、隠居して人との交わりをできるだけ絶ち、およそ政治や現実問題とは無縁な生き方をしながら蘭書に没頭する人物として描かれている。
彼の著作は主に写本で伝わり、現在までに確認されているものは50点近くにのぼる。それらは、いつ成立したのか、いつ写されたのかが不明のものが多い。著作の半分近くは西洋天文・物理学関係の蘭書からの翻訳で、次に多いのがオランダ語・文法に関するもので約3割を占める。前二者に比べると数は多くないが、地理、海外事情に関する翻訳も認められる。その訳述の内容と豊富さから西洋科学に対する志筑の熱意が感じとられるが、一方でエンゲルベルト・ケンペル『日本誌』のオランダ語第二版(1733)の巻末附録の最終章を訳出した写本「鎖国論」(1801)に志筑が付した注釈には排外的な側面も見られ、矛盾葛藤する両面を見せている。
【主な訳著書】
・『万国管窺』1782年 - 大航海時代のいくつかの旅行記の日本語訳。日本で初めてコーヒーについて言及した書、との説がある。
・『八円儀及其用法之記』1798年 - コルネリス・ドウエス著『Cornelis Douwes: Beshrijving van het Octant』(1749年)の日本語訳。
・『鎖国論』1801年 - エンゲルベルト・ケンペル(ドイツ人、1651年 - 1716年、医師)著『日本誌』(1727年)の章の1つ『日本国において自国人の出国、外国人の入国を禁じ、又此国の世界諸国との交通を禁止するにきわめて当然なる理』の日本語訳。「鎖国」という言葉を生んだ書とされている。
・『暦象新書(上中下)』1798年から1802年 - 原著はジョン・カイル(John Keill, 1671年-1721年)の『真正なる自然学および天文学への入門書(Introductiones ad Veram Physicam et veram Astronomiam)』(1725年)のオランダ語版(1741年)。アイザック・ニュートンヨハネス・ケプラーの生んだ法則や概念、+、−、÷、√といった記号を日本に紹介し、「遠心力」、「求心力」、「重力」、「加速」、「楕円」という語を生んだ書。

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『日本の天文学―西洋認識の尖兵』 中山茂/著 (岩波新書 1972年発行
長崎の通詞たち (一部抜粋しています)
志筑忠雄は長崎の人、本性を中野といい、オランダ通詞の志筑家の養子となり、安永5年(1776)養父の跡を継いで稽古通詞となった。しかし翌年病のためと称して職を辞し、以後家にあってひとり蘭書を読み著作に励んだ、という。彼の『天文管規』(1782)の序に、「病気治療のあいだに蘭書を訳してうさばらしをした」とあるが、はたしてそうであったか。それは公務を辞する口実で、実は体制からはなれたところで、自由に蘭書に取り込み、思索をこらしたい、というのが彼の真意ではなかったか。
志筑忠雄は日本の知的伝統のなかでは稀有な自然哲学者である。彼の問題意識は、西洋近代の自然哲学者の感覚に非常に近い。それは自然界の諸現象を、人倫的・美的・実際的問題に短絡させることなく、物の理として突き止めてゆこうとする姿勢である。江戸時代の一般思想界を支配した儒教的な人倫至上主義の知的風土からすれば、西洋式の近代科学、とくにその根幹たる機械論は、学問の中心から外れた。迂遠でつまらないテーマをいじくることとしか映らなかったであろう。それなのに、20年間も忠雄がジョン・カイルの著書『天文学・自然哲学入門』の翻訳と、それに触発された自らの自然哲学の構築に没入し、いわば志筑忠雄の世界というものを作りあげ得たのは、当時の知的職業集団から孤立し、体制からかなれたところで、知的営みが行われたからであろう。
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カイルは科学史上の大物ではない。ニュートンの熱烈な信奉者として、デカルトライプニッツという他の近代科学の教祖候補、およびそれらの支持集団とわたり合って、ニュートンを近代科学の教祖にまつり上げ、ニュートン路線形成に一役買った人物として、科学史上評価されている。その著書『天文学・自然哲学入門』はニュートン学が近代科学のパラダイムとしての位置を確立しつつある頃の著作であり、彼自身そのパラダイムの整備に当たっているのであるから、論述にヨーロッパ大陸派を意識した論争的な調子が見られる。そしてより重要ななことに、後の整理された教科書、解説書とちがって、学問の基礎への問い、自然哲学的要素が多分に保存されている。ほかの通俗書には満足しなかった忠雄も、このカイルの著書にはぴったりする何かを感じたのであろう。かくして忠雄は東洋で最初のニュートン主義者となった。
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果たして、忠雄はどれほどの影響を後継者に与えたか。忠雄は論者の間では有名であったが、『暦象新書』をマスターしてそこから一歩を進める、という彼に後続する才能はほとんど見当たらない。彼のニュートン主義は天体力学や砲術の弾道計算の方向に発展してよいはずであり、自然哲学としての展開もありえてよいはずである。彼に帆足万里(1778-1852)の『窮理通』(1836)などの著述があらわれたが、結局は忠雄のニュートン解釈を乗り越えて進む人物はあらわれなかった。やはり鬼才忠雄は時代に孤立した存在であった。
あえて例外を一人あげれば、天文方、渋川景佑であろう。彼ははじめ忠雄の諸説をよく理解できない、としていたが、他の洋書の訳業などを通じて、ついにニュートン主義の粒子説、力学、天文力学を捉え、弘化3年(1846)の『新法暦書続編』中の「寰宇総論」に見事に表現している。忠雄のような自然哲学的掘り下げはないが、技術的・専門的には江戸時代におけるニュートン理解の最高水準といえよう。

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