じじぃの「科学・地球_17_科学とはなにか・科学技術は誰のものか①」

John Herschel Everything Philosophers

動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=qVE4oeocyTU

John Herschel

星を追い、光を愛して 19世紀科学界の巨人、ジョン・ハーシェル伝 ギュンター・ブットマン著

AstroArts
筆者ブットマン氏が言うとおり、一般にジョンは天王星発見者ウィリアム・ハーシェルの息子としてしか知られていない。
ところがどっこい、彼は功績の数では天文学者の中でも指折りの存在なのだ。彼の研究は父から継いだ天文学ばかりでなく、写真術や化学から地球物理学、鉱物学、植物学までと実に幅広く、本書によれば進化論で有名なダーウィンにまで影響を与えたという。
https://www.astroarts.co.jp/hoshinavi/magazine/books/individual/4782801661-j.shtml

『科学とはなにか 新しい科学論、いま必要な三つの視点』

佐倉統/著 ブルーバックス 2020年発行

第3章 科学技術は誰のものか──①近代科学の誕生以前は より

名探偵エルキュール・ポアロのもとに、ちょっと風変わりな初老の女性が依頼人としてやってくる。この女性、オカルトに凝っていて、科学技術を根っから信じていないのだ。ポアロが、彼女に反論するにはどうしたらいいだろうと考えているのがこの場面である。
ここでポアロが名前を挙げているハンフリー・デイヴィー(1778~1829)は、おもに19世紀初期に活躍したイギリスの化学者である。化学ブームの時代の波に乗り、新しい元素を次々と、なんと6つも発見した。ナトリウム、カリウム、カルシウム、ホウ素、マグネシウムバリウム。個人最多記録である。

近代科学の方法論

第1の、科学的方法が確立した時期は、「17世紀科学革命」とか「第一次科学革命」といわれることがある。第2章で解説した方法論が、おおよそ確立したのがこの時期であるというのが教科書に書かれている通説である。フランシス・ベイコンの「知識は力なり」から始まる経験主義に、実験や観察で実際に確かめるという実証主義、論理立てて推論する合理主義などが合体して、西洋近代科学の方法論が確立したとしておいていいだろう。象徴的な人物として、ガリレオ・ガリレイを挙げておく。もっとも、実際の彼は実験はあまりおこなわず、数学的モデルをつくるほうが得意だったといわれている。
第2の変革点は、18世紀から19世紀にかけて、科学が知識生産方法として哲学から独立していく時期である。科学者が社会的職階として独立する時期でもあり、「科学の制度化」が進んだ時代である。
この移行期は、現代の自然科学や科学技術の特性を考えるうえで興味深い事例がたくさんあるので、少していねいに見ていこう。ハンフリー・デイヴィーの「科学的業績」として、元素の発見という科学的知識より、炭鉱夫の命を救うランプの発明という技術的成果のほうが高く評価されており、その理由は人道主義的な貢献であったというエピソードはすでに紹介したので、ここでは別の例を挙げる。彼より40歳年長の天文学者、ウィリアム・ハーシェル(1738~1822)の発言である。

科学に没頭する意義

ハーシェルはもともと、ドイツ生まれの音楽家だったが(ドイツ語流に発音すればヴィルヘルム・ヘルシェル)、イギリスに渡って音楽のかたわら数学と天文学にも興味を抱くようになり、ほとんど独学でこれらをマスターした。1781年に天王星を発見して一躍、名を上げる。赤外線の発見者でもある。
楽家としてはヴァイオリンやオーボエを演奏したほか、交響曲や協奏曲、教会音楽なども作曲している。ナクソスやアップル・ミュージックのサイトには、彼の作った曲のアルバムも10枚ほど収められているが、現在はほとんど天文学者としてのみ知られるといってよかろう(ちなみに、彼のオーボエ協奏曲と室内交響曲を聴きながらこの文章を書いています)。
さて、そのハーシェルは晩年、天文学の意義は宇宙に人間性を拡大することだと述べている。ここでもデイヴィーの安全ランプ同様、科学は人間性ヒューマニズムを具現化する手段として位置づけられているのだ。デイヴィーは安全ランプの研究開発を報告した論文で、知識が知識だけで終わるのではなく、実用的な力を備え、人々の苦痛を減らし、快適さを増大させるときにこそ、科学に没頭する意義がもたらされると誇らしげに述べている。

近代自然科学の幕開け

ジョン・ハーシェル(ウィリアム・ハーシェルの息子、1792~1871)は1834年から38年までの4年間を南アフリカで過ごし、天体観測に没頭した。北半球では観測できない天体を観測するのが目的だったが、祖国イギリスの「科学」をめぐる権威主義的な雰囲気が我慢ならなかったというのもあるようだ。彼は、現代計算機の元素チャールズ・ベバッジらとともに、王立協会をはじめとするイギリス科学界の改革運動の先人を切っていて、科学からロマン主義の衣をはぎとり、合理主義の結晶へと彫琢(ちょうたく)し直す中心人物だった。
そのジョン・ハーシェルが、遠くアフリカの地で、探検の香りのともなう観測をおこなっていたことには、なんとも興味がそそられる。ロマン主義科学の掉尾(とうび)を飾るものでもあり、近代自然科学の幕開けを飾るものでもあり、ということだろうか。
彼は、イギリス帰国後の1839年の大晦日に、父ウィリアムが作成した、かの40フィート大望遠鏡を解体する。すでに実際の観察には使われていなかっただけでなく、老朽化が著しく危険ですらあった。

かくして、ロマン主義科学の象徴であったモニュメントは、製作者の実の子によって壊された。科学の松明(たいまつ)は、ジョン・ハーシェルの次の世代のチャールズ・ダーウィンたちへ、そしてさらにその次の世代へと引き継がれていく。

「科学のための科学」の時代が、始まりつつあった。