じじぃの「人の死にざま_990_朱・元璋」

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朱元璋 002 1 動画 YouTube
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朱元璋 ウィキペディアWikipedia)より
朱元璋(しゅげんしょう、1328年10月21日 - 1398年6月24日)は、中国の明朝の創始者であり、初代皇帝である。廟号は太祖。その治世の年号を取って、洪武帝と呼ばれる。また、生まれた頃の名は、朱重八といい、後に朱興宗と改名し、紅巾軍に参加する頃にさらに朱元璋と改名し、字を国瑞とした。
【粛清】
1375年には劉基が胡惟庸に毒殺された。廖永忠も殺されている。1380年には、功臣・中書左丞相・胡惟庸の疑獄事件をきっかけとしてそれまでの功臣の大粛清を始めた。これは胡惟庸の獄と呼ばれ、胡惟庸らの誅殺により一旦は終結した。この際、胡惟庸は隣国日本に通じたという容疑もかけられている。
洪武帝は死の間際まで功臣を殺し続け、1398年に崩御した。享年71(満69歳没)。

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井沢元彦の英雄の世界史』 井沢元彦/著 廣済堂文庫 2008年発行
成り上がりの英雄 朱元璋 (一部抜粋しています)
三国時代のように群雄が割拠するというは、言い換えれば本当の英雄が存在しなかった時代だといえる。本当の英雄というものは、何もバックボーンがなくても頭角を現し、天下を掌握してしまうものだ。その典型ともいえるのが、明の太祖・朱元璋である。
朱元璋が生まれたのは1328年、ユーラシア大陸に広大な勢力を誇ったモンゴル民族の王朝「元」の末期である。朱元璋の父は貧しい農民で、母はシャーマンの娘だったといわれている。しかも彼は四男二女の末っ子だった。1344年、その貧しい農民の一家を、イナゴの害が襲った。イナゴの害は日本ではあまり馴染みがないが、中国やイギリスではイナゴの害がしばしば起き、飢饉の原因となっている。
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朱元璋もこのイナゴの害によって、両親と兄弟の多くを失ってしまう。生き残ったのは、次兄の興隆と朱元璋だけだった。
家族を失った朱元璋は、もともと身体が弱かったこともあり、兄の足手まといにならないようにと、寺に入った。だが、寺も飢饉で苦しいことに変わりない。彼が寺にいられたのはわずか50日、その後はいわゆる雲水(うんすい)となり、諸国を行脚することとなる。このとき朱元璋は16歳であった。雲水として諸国を行脚したというと、親兄弟の弔いをしながら托鉢(たくはつ)して回る修行僧のような姿を想像するかもしれないが、彼は後に皇帝にまで上り詰める男である。そんな殊勝な男であるはずがない。彼は諸国を行脚するうちに、民衆の人気を集めていた白蓮教(びゃくれんきょう)を旗印とした乱徒たちの中に身を置くようになっていった。
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白蓮教徒の中に入った朱元璋は、1352年、その教えを核として挙兵した。そして、同じく白蓮教徒を中心勢力とする反乱軍である紅巾(こうきん)軍の郭子興(かくしこう)の傘下に入った。「紅巾」という名は、彼れが目印に赤い布を頭に巻いていたことに由来する。そして1355年、郭子興が病没したため、朱元璋がその地盤をすべて受け継ぐと、それを基盤に着実に勢力を拡大し、1364年には「呉国王」を名乗った。そして、最終的には元を北方に追いやり「明」を打ち立てるのである。
彼が自ら帝位に就き明を建国したのは1368年。家族を失い、たった一人で乞食同然の姿で雲水行脚に出てから24年後のことである。貧農の家に生まれ、まったくの徒手空拳の状態から身を起こし、皇帝にまで上り詰めたというのは、中国の長い歴史の中でも朱元璋だけであろう。大出世物語として語られることの多い漢の高祖・劉邦でさえ、宿場町のヤクザの親分のようなものではあるが、農民の出ではない。
朱元璋は、即位するとすぐに「中華の回復」というスローガンを掲げ、国内に残るモンゴル色を一掃し、秦・唐以来の漢民族の伝統へ復帰することを宣言した。それと同時に彼が行ったのは、意外かもしれないが白蓮教信仰の禁止だった。自らの出世の足がかりとなった白蓮教を、彼は「こんなものはインチキだ」と一蹴したのである。
彼の政治姿勢は非常に独創的なものであった。1380年に丞相の胡惟庸が叛逆事件を起こしたのを機に、政治の最高機関である中書省を廃止、行政機関の六部を皇帝の直属とした。同時に軍隊の最高統帥権も皇帝が握るように作り替えている。こうした一連の改革によって朱元璋は独裁体制を固めたのである。彼はその生涯に24人もの息子を成し、彼らを全国の要地に派遣し、藩主とした。このように彼の政治は独裁的でありながら、同時に極端に血縁関係に依存したものでもあった。彼のこうしたやり方を、10代で家族を失った反動とみる歴史家もいる。そんな、家臣を信用せず、多くの功臣たちを謀殺し尽くした朱元璋は、晩年は皇后にも先立たれ孤独のうちに、1398年病没した。
彼の廟号は「太祖」である。それなのに彼が「明の洪武帝」と呼ばれるのは、彼が皇帝一代につき年号を一つとする「一世一元」を定め、自らの代の年号を「洪武」としたからである。

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