じじぃの「人の死にざま_981_鶴屋・南北」

東海道四谷怪談 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=AnI0b_nb6kA
四谷怪談_予告篇 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=bYdHg1Z0u4o
道化としての鶴屋南北
『略儀ながら狭うはござりますれど、棺の内より頭をうなだれ、手足を縮め、御礼申し上げ奉りまする。先ずは私存生の間、永久御贔屓になし下されましたる段、飛び去りましたる心魂に徹し、如何ばかりか有難い冷や汗に存じ奉りまする・・』
それは南北が自分の葬式のために書いた台本でした。
http://www5b.biglobe.ne.jp/~kabusk/geitohito17.htm
鶴屋南北 (4代目) ウィキペディアWikipedia)より
四代目 鶴屋南北は、江戸時代後期に活躍した歌舞伎狂言の作者。
鶴屋南北を襲名した者は5名を数えるが、単に鶴屋南北または南北というと、通常はこの四代目ことをさす。また5代の南北のなかでもその業績が突出しているため、この四代目のことを特に大南北(おお なんぼく)ともいう。
【作風】
独創性に富み、初代尾上松助とともに怪談物を、七代目市川團十郎・三代目尾上菊五郎・五代目岩井半四郎、五代目松本幸四郎らとともに生世話物をそれぞれ確立した。また、鬘師籐九郎と協力して現在につたわるような鬘も編み出している。怪談物では大道具の十一代目長谷川勘兵衛と提携して巧妙な舞台装置を創造し、歌舞伎の新しい表現を開拓した。

旧作のパロデイに優れ、同時に奇想天外な着想とリアリズムに徹した背景描写を得意とし、『忠臣蔵』の悪役定九郎が正義の忠臣として扱われ(『菊宴月白浪』)、殺人現場で婚礼を行ったり(『東海道四谷怪談』)、葬儀と婚礼とが同時に家の中で行われる。(『法懸松成田利剣』)花魁が裏長屋に来たり(『浮世柄比翼稲妻』)、公家が生活苦のため陰間になったり、姫君が辻君になったりするなど、全く異なる世界をないまぜにする展開が特徴的。頽廃と奇怪の中に毒のある笑いを加味したその作風は、文化文政期の爛熟した町人文化を色濃く反映している。
当時の庶民の生活をリアルに描き、悪人たちが引き起こす事件を乾いた視線で表現する技法は、後進の如皐、黙阿弥らに継承され、今日の映像、舞台芸術にも大きな影響を与えている。
四谷怪談 ウィキペディアWikipedia)より
四谷怪談とは、元禄時代に起きたとされる事件を基に創作された日本の怪談。江戸の雑司ヶ谷四谷町(現・豊島区雑司が谷)が舞台となっている。 基本的なストーリーは「貞女岩が夫伊右衛門に惨殺され、幽霊となって復讐を果たす」というもので、鶴屋南北の歌舞伎や三遊亭圓朝の落語が有名である。怪談の定番とされ、折に触れて舞台化・映画化されているため、さまざまなバリエーションが存在する
東海道四谷怪談
東海道四谷怪談』は、四代目鶴屋南北作の歌舞伎狂言。全五幕。文政8年 (1825) 江戸中村座で初演された。
作者南北の代表的な生世話狂言であり、怪談狂言(夏狂言)。『仮名手本忠臣蔵』の世界を用いた外伝という体裁で書かれ、前述のお岩伝説に、不倫の男女が戸板に釘付けされ神田川に流されたという当時の話題や、砂村隠亡堀に心中者の死体が流れ着いたという話などが取り入れられた。
岩が毒薬のために顔半分が醜く腫れ上がったまま髪を梳き悶え死ぬところ(二幕目・伊右衛門内の場)、岩と小平の死体を戸板1枚の表裏に釘付けにしたのが漂着し、伊右衛門がその両面を反転して見て執念に驚くところ(三幕目・砂村隠亡堀の場の戸板返し)、蛇山の庵室で伊右衛門がおびただしい数の鼠と怨霊に苦しめられるところ(大詰・蛇山庵室の場)などが有名な場面となっている。

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『人間臨終図巻 下巻』 山田風太郎著 徳間書店
鶴屋南北(つるやなんぼく) (1755-1829) 74歳で死亡。 (一部抜粋しています)
日本橋の紺屋(こうや)職人の子に生まれた南北は、20歳のとき芝居の作者部屋にはいったが、以後30年無名下積みの生活を過し、ようやく『天竺徳兵衛韓噺(てんじくとくべえいこくばなし)』によってはじめて名を出したとき、彼は数え年50になっていた。
以後彼は、『東海道四谷怪談』その他、時空を超越した構想と、爛熟した文化文政の闇の底にうごめく血みどろの人間像の描写で、後世まで人々の魂をとらえる名作を堰(せき)を切ったように書きつづける。彼の作品についてはいろいろ「深読み」は出来るけれど、何より彼は大パロディ作家だったのではあるまいか。
しかし、徳川期の多くの作家画家同様、彼の生涯はよくわかっていない。
ただ文政12年11月27日に死んだことが判明しているが、この月に傑作『金幣猿島郡(きんのざいさるしまだいり)』を書きあげているところを見ると急病によるものか。しかもこの作に(一世一代)と書き添えているところを見ると、死を予感する状態にあったものか。
しかし、生前すでに自分の葬式のだんどりを、彼らしく徹底的に茶化した『寂光門松後万歳(しでのかどまつごまんざい)』という脚本にしていた。だいたい南北は狂言の中に棺桶を使う趣向を好み、芝居に棺桶が出てくるとそら南北だ、と客が笑ったくらいだが、これも棺桶の中の南北が挨拶する趣向で、
「略儀ながら狭うはござりますれど、棺の内より頭をうなだれ、手足を縮め、御礼申し上げまつりまする。まずは私、存生の間、ながなが御贔屓になし下されましたる段、飛び去りましたる心魂に徹し、いかばかりか有難い冷や汗に存じまつりまする・・・」
本所押上春慶寺の葬儀はにぎやかであったという。

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