じじぃの「人の死にざま_975_永野・修身」

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Attack on Pearl Harbor 真珠湾攻撃 動画 YouTube
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真珠湾攻撃トラ・トラ・トラ! 動画 YouTube
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ねずさんの ひとりごと 永野修身元帥のこと
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プライムニュース 「昭和天皇実録」公開 1万ページを読み解く 開戦・終戦時の真意は 2014年9月9日 BSフジ
【キャスター】島田彩夏、反町理 【ゲスト】秦郁彦(現代史家)、山内昌之東京大学名誉教授)
8月21日、昭和天皇実録が完成し、天皇皇后両陛下に献上(奉呈)された。
これは、昭和天皇の生涯に渡る日々の活動を記したもので、61冊約12000ページにも及ぶ。本文中に黒塗りはなく、宮内庁は来春にも公刊する予定だ。太平洋戦争の開戦前や終戦時の昭和天皇の様子がどう記録されているのかなどに注目が集まっている。
この日は識者を迎え、昭和天皇実録についてうかがう。
前編:http://www.bsfuji.tv/primenews/movie/index.html?d140909_0
後編:http://www.bsfuji.tv/primenews/movie/index.html?d140909_1
永野修身 ウィキペディアWikipedia)より
永野修身は、大日本帝国海軍の軍人、日本の教育者。海軍兵学校28期。最終階級は元帥海軍大将・正三位・勲一等・功五級。東京裁判中に巣鴨プリズンにて病死。帝国海軍の歴史上、海軍三長官海軍大臣連合艦隊司令長官軍令部総長)を全て経験したのは永野だけである。
【経歴】
高知県士族永野春吉の四男として誕生。山下奉文参謀本部次長であった沢田茂と同じく、藩主・山内豊範が明治初年に設けた高知海南中学を卒業。海軍兵学校第28期。
1945年8月14日、ポツダム宣言を受託するにあたって昭和天皇が元帥府の意見を聴取した際、「皇室の安泰は敵側において確約しあり,大丈夫」との天皇の所信を伝えられ、これに従った。自決を図ろうとするも、親友の左近司政三に「生きることこそあなたの責任だ」と諭され自決を思いとどまった。
戦後、アメリカをはじめとする戦勝国真珠湾作戦を許可した責任を問われ、A級戦犯容疑者として極東国際軍事裁判に出廷するが、裁判途中の1947年1月2日に寒さのため急性肺炎にかかり巣鴨プリズンから聖路加国際病院へ移送後同病院内で1947年1月5日に死去した(『海よ永遠に元帥海軍大将永野修身の記録』南の風社では1月5日11時50分に両国の米陸軍第361野戦病院で死去したこととなっている)。永野は裁判中、自らにとって有利になるような弁明はせず、真珠湾作戦の責任の一切は自らにあるとして戦死した山本に真珠湾攻撃の責任を押しつけようとはしなかった。また、真珠湾攻撃について記者に訊ねられても「軍事的見地からみれば大成功だった」と答えるなど最後まで帝国海軍軍人として振舞った。この裁判での姿勢を見たジェームズ・リチャードソン米海軍大将は真の武人と賞した。享年66。戦死ではなく病死ではあったが1978年、A級戦犯として絞首刑に処せられた東条英機らと共に法務死として靖国神社に合祀された。

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『人間臨終図巻 下巻』 山田風太郎著 徳間書店
永野修身(ながのおさみ) (1880-1947) 66歳で死亡。 (一部抜粋しています)
太平洋戦争開戦時、海軍軍令部長として「いま海戦せねば、戦機を逸する」として開戦に踏み切らせた永野は、敗戦とともにA級戦犯となった。
海軍の主戦論者として、日本側からみれば問題のある永野だが、しかし東京裁判に証人として出廷した前アメリカ太平洋艦隊司令長官リチャードソン提督は、真珠湾攻撃に関して、
「あのような雄大な作戦を完全な秘密裡に遂行したことに対して、被告永野提督に、同じ海軍軍人として敬意を表する、と伝えて欲しい」
と、米軍憲兵隊長に伝言を託して去った。
無謀とも思われる真珠湾奇襲は、山本五十六が発想し、永野が許可したものだが、プロとしてリチャードソンは感服したのである。
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その東京裁判で永野は居眠りばかりしていたが、昭和22年1月5日に急死した。
報を聞いて永野の家族が、指定されたアメリカの陸軍病院にゆくと、シーツにくるんだ永野元帥の遺体がベットに置かれていて、アメリカの軍医が、死因は、肺炎、肺結核第2期、狭心症だといい、遺骸は引き渡さない、といった。そこで、裁判の結果はまだ出ていない、まだ罪人ではないと強く申しいれたところ、アメリカ側はやっと遺骸引渡しに応じた。
義弟の家に運ばれた屍体のシーツをとって、一同は眼を見張った。元帥の身体は解剖されたあとが歴然としていた。

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