じじぃの「人の死にざま_972_岳・飛」

岳飛 - あのひと検索 SPYSEE
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20101215 杭州市西湖岳王廟.mp4 動画 YouTube
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岳飛伝』連載開始への思いを北方謙三、大いに語る 動画 YouTube
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海国防衛ジャーナル 動画あり
旧ブログタイトル 『尽忠報国記』です。
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岳飛 ウィキペディアWikipedia)より
岳飛(がくひ、Yue Fei 1103年 - 1141年)は、中国南宋の武将。
字は鵬挙。相川湯陰(河南省湯陰県)出身。南宋を攻撃する金に対して幾度となく勝利を収めたが、岳飛らの勢力が拡大することを恐れた宰相・秦檜に謀殺された。その功績を称えて後に鄂王(がくおう)に封じられ(岳鄂王と呼ばれる)、関羽と並んで祀られている。
【生涯】
岳飛は元々は豪農の出であったが、幼児の時に父を亡くし、母の由氏に育てられたという。やがて21歳の時に、北宋代の1122年に開封を防衛していた宗沢が集めた義勇軍に参加した。彼は武勇に優れ、その中で金との戦いなどに軍功を挙げて頭角を現し、1134年には節度使に任命された。
しかし、増大する名声が秦檜派の反感と嫉視を招くことになる。
1140年に北伐の軍を起こすと、朱仙鎮で会戦を行い金の総帥斡啜の率いた軍を破って開封の間近にまで迫るが、秦檜の献策により友軍への撤退命令が出され孤立した岳飛軍も撤退を余儀なくされたと宋史に記されるが、金史の側にこの会戦の記録はない。
その後、秦檜により金との和議が進められる。それに対して主戦派の筆頭であり、民衆の絶大な人気を持った岳飛は危険な存在であり、1141年に秦檜は岳飛とその養子の岳雲、岳家軍の最高幹部である張憲に対して、冤罪を被せ謀殺した。この時、岳飛は39歳で岳雲は23歳だった。その背には母親によって彫られたとされる黥(入れ墨)の「尽(精)忠報国」の四文字があったという。
岳飛は後代、救国の英雄として称えられた。現代でも中国の歴史上の英雄と言えばまず岳飛の名前が挙がるほどである。

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井沢元彦の英雄の世界史』 井沢元彦/著 廣済堂文庫 2008年発行
尽忠報国(じんちゅうほうこく)」を貫いた軍人 岳飛 (一部抜粋しています)
中国の長編小説に『水滸伝』という作品がある。これは南宋時代の中国を舞台にした作品で、さまざまな特殊能力を持った英雄・豪傑108人が、梁山泊に集まり、皇帝の命を受けて北方遊牧民族を片っ端からやっつけていくという話になっている。
しかし実際の宋は、遊牧民の金に圧迫され、その後台頭してきた遊牧民族の元に滅亡されてしまう。つまり、この『水滸伝』もケルトアーサー王伝説と同じように、現実には負けた民族の理想を108人の豪傑に託して描かれた作品なのである。
だが現実の世界にも、たった一人だけ遊牧民族に対して徹底抗戦の態度を貫き通した愛国の英雄がいた。それが岳飛である。
岳飛は、1103年相州の湯陰(現在の河南省湯陰県)に農村の子として生まれる。彼は非常な努力家で、勉強に勉強を重ね、『春秋左伝』『孫氏』『呉子』といった兵法にも精通した。また彼は、弓の名手でもあった。今でも岳飛の肖像には必ず弓が描かれるほどである。中国というのは軍官でも武官でも正式には試験を通らなければなれないのだが、彼の場合は試験を受けていない。いわゆるたたき上げの軍人というやつである。なぜなら彼は、最初から正式な官軍に入ったのではなく、義勇軍にいたところを南宋の高宗に見いだされ、抜擢され指令官になった人物だからである。義勇軍というのは、民間のボランティア軍隊のようなもので、ゲリラ活動のようなことをして、遊牧民族に対抗していた勢力である。そんな一兵卒からたたき上げた岳飛だが、司令官になった後も、何度も手柄を立て、ついには将軍にまで出世する。彼の率いる軍隊は、厳しい規律と盛んな戦闘力で知られ数々の戦果を挙げた。
そのころ、金軍に圧倒された宋は、さらに南の江南の地である広州に都を移している。実際にはこれは遷都なのだが、プライドの高い漢民族はこの都を「行宮」と呼んだ。行宮というのは、日本でも使われる言葉だが、正式な都ではなく、帝が行幸した際に一時的に留まられた場所を指す言葉である。つまり、今は南に逃れているが、いつかは中原の地を取り戻すという思いが、そこには込められているのである。
しかし、実際の政治の場では、金と徹底的に戦うという気概を持つ者はほとんどなく、文官の秦檜(しんかい)を中心する柔軟路線が大勢を占めていた。
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こうした岳飛と秦檜の争いは、秦檜に軍配が上がる。「軍人である岳飛は勝てるというが、もし戦って負けたらどうするのか」と秦檜が言い、金との和平交渉を進めてしまったかである。
しかし、それによって岳飛と秦檜の関係は、抗戦派と和平派の抗争という形で、抜き差しならないものとなっていく。その結果、秦檜は謀反をたくらんでいるという無実の罪をでっち上げ岳飛を陥れてしまう。1141年こうして岳飛は、敵と戦って死ぬのではなく、味方から裏切られ、処刑されてしまうのである。まだ39歳という若さであった。
反逆者の汚名を着せられ処刑された岳飛の名誉が回復されるのは、秦檜が世を去り、ふたたび金との緊張がたかまった1178年のことである。この年、岳飛には「武穆(ぶぼく)」という諡(おくりな)が贈られている。
彼のスローガンである「尽忠報国」という言葉は、それ以後愛国者のスローガンとなり、岳飛は中国で最も愛国心の厚い英雄の一人として名を馳せることとなった。
現在、広州には岳王廟というものがあり、そこで彼は愛国の神様として祀られている。

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