じじぃの「人の死にざま_1607_吉田・清治(朝鮮・慰安婦狩り)」

慰安婦問題の発端は吉田清治の捏造本と朝日新聞の「世紀の大誤報」〜屋山太郎氏:静岡新聞【論壇】 動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=WdUranSastk
吉田清治

従軍慰安婦朝日新聞の捏造だった。朝日がキャンペーンを張った吉田清治の証言は嘘だった 2012/01/21 Afternoon Cafe
そもそも現在ではもう誰も吉田証言を強制連行の資料として使っていないことを認識していただきたい。
『吉田証言は根拠のない嘘とは言えないものの、「時と場所」という歴史にとってもっとも重要な要素が欠落したものとして、歴史証言としては採用できない』とされており、誰も吉田証言を元に慰安婦問題の主張などしていないのである。
歴史研究では吉田証言を使った研究はない。
http://akiharahaduki.blog31.fc2.com/blog-entry-1265.html
吉田清治 (文筆家) ウィキペディアWikipedia) より
吉田 清治(よしだ せいじ、1913年(大正2年)10月15日 - 2000年(平成12年)7月30日)は福岡県出身とされる文筆家。
1980年代に、大東亜戦争(太平洋戦争)の最中、軍令で朝鮮人女性を強制連行(「慰安婦狩り」)し日本軍の慰安婦にしたと「告白」。これがメディア、特に朝日新聞に長らく真実として取り上げられたことにより、国際問題化している「慰安婦問題」醸成の大きなきっかけとなった。
しかし、後の追跡調査では吉田の証言の客観的な裏付けは取れず、寧ろ反証が得られるなど矛盾点を指摘されるなか、1995年になって自らの証言が主張を織り交ぜた創作であることを認めた。その後、1998年頃を最後に消息が長らく不明だったが、2014年になって既に2000年7月に死去していたことが判明している。
秦郁彦による済州島現地調査】
1992年(平成4年)3月には秦郁彦が吉田の証言について済州島で現地調査を行ったが、裏付けが取れなかったどころか当時を知る城山浦の住民から「この島で人間狩りが起こったら大騒ぎになって誰でも知っているはずだが、そんな話は聞いたことすらない」「男子の徴用はあったが慰安婦狩りはなかった」との証言を得た。秦は、済州新聞記者の許栄善との面会の折、許から「何が目的でこんな作り話を書くんでしょうか」と聞かれ答えに窮したという。
また秦は、当時、吉田証言の番組を企画したが、結局番組が制作されなかったというNHK山口放送局にもその理由を問い合わせたところ、番組担当者が吉田証言の裏付けがとれず、さらに吉田の著作を刊行した出版社が「あれは小説ですよ」と述べたので企画を中止したとの証言を得た。
秦はこれらの調査を産経新聞 1992年(平成4年)4月30日で発表、『正論』1992年(平成4年)6月号にも調査結果を公表した。この論文は『昭和史の謎を追う』(文藝春秋1993年3月)にも掲載し、菊池寛賞を受賞した。その著書の中で吉田を「職業的詐話師」と称している。

                            • -

昭和史の謎を追う 下』 秦郁彦/著 文藝春秋 1999年発行
従軍慰安婦たちの春秋(上) (一部抜粋しています)
1992年3月29日の昼前、私は済州島国際空港のターミナルに降り立った。
佐渡島の2倍ぐらいと聞いていたが、機上から見た済州島のサイズは思ったより大きい。満開の桜並木の間を抜けて済州市内のホテルへ向う車上で、私は50年前の島の景観をあれこれ思いめぐらせた。
吉田清治『私の戦争犯罪――朝鮮人強制連行』(三一書房、1983年)に描かれた慰安婦狩りの生態――それを実地検証してみるのが旅の目的だった。労務報国会下関支部勤員部長の肩書を名のる吉田が、西部軍司令部(福岡)の「動員命令」をもらい、9人の部下をつれて済州港に上陸したのは1943年(昭和18)年5月18日だという。
吉田が著書に引用している「動員命令」書の要点は、以下のようなものであった。
 一、皇軍慰問、朝鮮人女子挺身隊二百名
 一、年齢 十八才以上三十才未満
 一、身体強健なる者(特に花柳病の検診を行うこと)
 一、期間 一年
 一、給与 毎月金三十円也、支度金として前渡金二十円也
 一、勤務地 中支方面
 一、動員地区 朝鮮半島全羅南道済州島
 一、派遣日時 昭和十八年五月三十日正午
 一、集合場所 西部軍第七四部隊(注・下関砲兵隊の通称)
それから1週間、10人の武装した兵隊と憲兵に護衛されて、吉田の挑発隊は島を縦横にかけめぐり、泣き叫ぶ朝鮮人女性を狩りたて、片はしからトラックに積みこんだ。役得としてトラック上で強姦する兵もいた。
帽子工場の女工から8人、貝ボタン工場で16人、乾魚工場から27人、ソーセージ製造所から50人、西帰浦の海女を50人というぐあいに、計205人を連行するナマナマしい情景が活写されているが、ここでは城山湊の貝ボタン工場での連行ぶりを抜き出しておこう。
  女工たちは竹かごの中から貝がらを、手早く鉄わくの中へ入れ、足踏み機械を操作すると、一銭銅貨より小さなボタンを同時に10個ばかり作っていた……隊員たちがすばやく工場内の2ヵ所の出入り口を固め、木剣の先を突きつけて、女工たちを起立させた。
  「体格の大きな娘でないと、勤まらんぞ」と山田が大声で言うと、隊員たちは笑い声をあげて、端の女工から順番に、顔とからだつきを見つめて、慰安婦向きの娘を選びだした。
  若くて大柄な娘に、山田が「前へ出ろ」とどなった。娘がおびえてそばの年取った女にしがみつくと、山田は……台をまわって行って娘の腕をつかんで引きずりだした……女工たちはいっせいに叫び声を上げ、泣き声を上げていた。隊員たちは若い娘を引きずり出すのにてこずって、木剣を使い、背中や尻を打ちすえていた。……女工の中から慰安婦に徴用した娘は16人であった。
     ・
解放44周年を迎え日帝時代に済州島の女性を慰安婦として205名を徴用していたとの記録が刊行され大きな衝撃を与えている。しかし裏付けの証拠がなく波紋を投げている。
(吉田著の概要を紹介)
 しかし、この本に記述されている城山浦の貝ボタン工場で15〜16人を強制徴発したり、法環里などあちこちの村で行われた慰安婦狩りの話を裏ずづけ証言する人はほとんどいない。
 島民たちは「でたらめだ」と一蹴し、この著述の信想性に対して強く疑問を投げかけている。城山浦の住民のチョン・オクタン(85歳の女性)は「250余の家しかないこの村で、15人も徴用したとすれば大事件であるが、当時はそんな事実はなかった」と語った。 郷土史家の金奉玉(キム・ポン・オク)氏は「1983年に日本語版が出てから、何年かの間追跡調査した結果、事実でないことを発見した。この本は日本人の悪徳ぶりを示す軽薄な商魂の産物と思われる」と憤慨している。
いわば吉田説の前面否定に近いが、私も海女の研究家でもある康大元氏(慶応大学出身)の通訳により城山浦の老人クラブ、4、5ヵ所あった貝ボタン工場の元組合員など5人の老人と話し合って、吉田証言が虚構らしいことを確認した。
「何が目的でこんな作り話を書くのでしょうか」と、今は『済民新聞』の文化部長に移っている許栄善女史から聞かれ、私も答えに窮したが、「有名な南京虐殺事件でも、この種の詐欺師が何人か現れました。彼らは土下座してザンゲするくせがあります」と答えるのが精一杯だった。
聞くところによると、くだんの吉田も何回か韓国へ謝罪の旅に出かけ、土下座したり慰安婦の碑を建てたり、国連の人権委員会に働きかけたりしているようである。しかし彼の申し立てには、本名や経歴をふくめ、他にも不審な点が多い。