じじぃの「人の生きざま_489_ビョン・ヨンジュ(映画監督)」

House of Sharing 動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=PJqBJSxc_uY
Tears of Arirang 動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=gTsDh-VCagc
女性監督 ビョン・ヨンジュ

慰安婦問題】クマラスワミ報告書の記述撤回要請…日本政府、ク氏に面会し直接要請 2014.10.16 産経ニュース
菅(すが)義偉(よしひで)官房長官は16日の記者会見で、慰安婦を強制連行された「性奴隷」と認定した1996(平成8)年の国連人権委員会(当時、現在は国連人権理事会)の「クマラスワミ報告書」を作成したスリランカの女性法律家、クマラスワミ元特別報告者に直接、日本政府として報告書の一部を撤回するよう求めたことを明らかにした。クマラスワミ氏は拒否した。
朝日新聞が8月、韓国の済州島慰安婦を強制連行したとする吉田清治氏の証言が虚偽だったとして、関連記事を取り消したことに伴う対応で、政府は慰安婦に関する国際社会の事実誤認を是正するため、さらに広報活動を強化する。
http://www.sankei.com/politics/news/141016/plt1410160012-n1.html
映画 ナヌムの家 シネマコリア
 韓国の女性が初めて従軍慰安婦問題を正面から取り上げたドキュメンタリー作品。「韓国のドキュメンタリー映画史・インディペンデント映画史・女性映画史は『ナヌムの家』以前と以後に分けられる」との評もある記念碑的作品。続編に『ナヌムの家2』が、そしてシリーズ完結編に『息づかい』がある。
撮影開始当時27歳だった新人女性監督ビョン・ヨンジュが2年をかけて、ソウルの「ナヌムの家」に住む元従軍慰安婦だったハルモニ(おばあさん)達の日常を記録した作品。
http://cinemakorea.org/korean_movie/movie/nanumu.htm
ナヌムの家 ウィキペディアWikipedia)より
ナヌムの家(House of Sharing)とは、かつて日本軍の慰安婦であったと主張する韓国人女性数名と、日韓の若者を中心としたボランティアスタッフが共同生活を送っている施設のこと。
ナヌムは朝鮮語で「分かち合い」、ナヌメチプで「分かち合いの家」の意。韓国京畿道広州市にある民間の施設で、「被害の歴史を昇華させ、世界的な歴史と平和、人権の聖地にすること」を目的に掲げている。歴史資料館が併設されており、韓国側の立場に基づく慰安婦の説明の他、太平洋戦争や日本による朝鮮半島の植民地支配についての歴史観も紹介している。1年間の来訪者数は1万人。そのうち3000〜5000人が日本からの訪問者である。
ここで共同生活を行う元慰安婦と称する老婆が、日中戦争から太平洋戦争の時期に中国大陸や南方戦線で働かされたとする体験談を訪問者に語り、日本の「過去の蛮行」とその「清算」の必要性を訴えている。

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『世界史映画教室』 家長知史/著 岩波書店 1997年発行
ナヌムの家 1995年 韓国 (一部抜粋しています)
1996年11月20日、京都の立命館大学のキャンパスで「『ナヌムの家』シネマ+トークの夕べ」と銘打ち、ビョン・ヨンジュ監督を迎えて映画「ナヌムの家」の上映会が催されました。800人収容の会場は満席、一般市民もまじえて多くの学生、若者たちが参加しました。映画の上映に先立ち、ビョン・ヨンジュ監督は参加者に「この映画は見る人に悲しみを与えるものでなく、勇気を与えるものです」と語りました。映画では「慰安婦」にされた女性隊の人生の深い悲しみが描かれています。それでもなお、監督が「悲しみ」ではなく、「勇気を与えるもの」と言ったのはなぜでしょうか。
「ナヌムの家」は、「元日本軍慰安婦のハルモニたちの現在を記録するドキュメンタリー映画」(ナレーションより。ハルモニは「おばあさん」の意味)で。1993〜94年のハルモニたちの日常生活を映し出し、彼女たちの「ナジュン・モクソリ(低い声)」[原題]、”The Murmuring(ぶつぶつつぶやくこと)”を拾い上げています。邦題の「ナヌムの家」とは何のことでしょうか。映画に登場する6人のハルモニたちは、ソウル市内にある1軒家で、仏教団体の支援を受けて共同体生活をしています。この家を人びとは<ナヌムの家>と呼んでいるのですが、それは<分かち合いの家>という意味です。ナヌムの家は、「慰安婦」という重くつらい、そして悲しみと屈辱に満ちた過去を背負うハルモニたちが、たがいに心を分かち合い、ともに生きるためのとても大切な場所なのです。
ところで、「日本軍慰安婦」というのは何のことでしょうか。1937年に始まる日中全面戦争と、続く41年からのアジア太平洋戦争のなかで、日本軍はその多くの占領地域に「慰安所」と呼ばれる施設を設置しました。この「慰安所」にはだまされて、あるいは強制的に連れて来られ、自由を奪われた多くの女性たちがおり、彼女たちは日本の軍人の性欲の処理の相手をさせられました(性行為を強いられました)。こうした「慰安婦」の総数は約8万〜20万人と推定されており、その出身国は日本、朝鮮、中国、台湾、フィリピン、インドネシア、マレーシア、オランダ、オーストラリアなどの国々ですが、全体の約8割を占めるのが朝鮮人女性でした。こうした状況におかれた女性に対する呼び方(「従軍慰安婦」など)をめぐっては、さまざまな意見がありますが、最近では実態を明確にする言い方として、SEXUAL SLAVE(性奴隷)が使われるようになってきています。
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「日本軍は敗戦を迎えて引き揚げましたが、日本軍に捨てられた女性は、そこ(武漢)1ヵ所だけで敗戦直後32人いらっしゃったそうです。ところが病気で死んだり、麻薬で死んだり(多くの軍人の相手をさせるため、痛みを感じさせなくなることを目的とした麻酔が使われたが、致死量を超えたため死亡した女性もいた)、飛び込み自殺や服毒自殺をした人が多く、現在、生き延びているのは10人ほどです。……私たちにできることや一番の望みは何かと聞くと、足腰の立たないハルモニまでが、治療費ではなく、死ぬ前に一度祖国に帰りたいとおっしゃるんですね」
17歳のときに武漢にやってきたハ・グンジャさんは、自分が何をさせられるのか知りませんでした。許可証を提出した医者にレイプされた彼女はその後、ふだんで5〜6人、公休日には10〜20人を相手にする生活を、日本の敗戦まで1年間強いられました。彼女はその後、故国に帰らず引き続き中国に残りましたが、そのときの思いをこう語ります。
演出者 「恥ずかしくて(国に)帰らなかったんですか?」
ハ・グンジャ 「はい」
演出者 「でも当時、恥ずかしくても故郷に帰っていたらよかったと?」
ハ・グンジャ 「もちろん帰りたかったよ。でも恥ずかしいじゃないか。こんなところにいて帰るなんて……」
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日本政府は「クマラスワミ報告(「慰安婦」を「性奴隷」と定義し、日本政府に賠償と謝罪を勧告したもの)を十分に考慮しつつ……対応を求める決議」には「合意」しましたが、クマラスワミ報告自体には「法的反論を撤回し、同報告を保留」しています。今後日本政府が報告書内容の課題に対して、どういう認識のもとで具体的にどう応えていくのかが注目されます。
しかし、より大切なのは私たち自身がこの問題をどう考えるのかということです。私たちは元「慰安婦」、いや性奴隷とされていた女性たちの体験と彼女たちの今日の姿、そしてその思いに接しました。この問題に関する国際世論も知りました。そこで私たちは何を感じ、思ったのでしょうか。この問題は私たち一人ひとりが歴史とどう向き合うか、言いかえれば歴史の事実に前にして、歴史をどう認識するかという問題なのです。そしてそれは、私たちのものの見方や考え方、そして生き方が問われていることにほかならないのです。