水滸伝DVD特番 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=rjUDz6-TCKU
宋元通宝 (宋銭)
和同開珎が出ても 本格的はいつ頃でしたか? 2009/9/26 Yahoo!知恵袋
回答
地方の交通の要所や寺社の門前に市が開かれるようになった鎌倉中期あたりです。
1242年の宋銭の輸入により貨幣が流通していきます。
富本銭、和同開珎から乾元大宝まで貨幣は製造されましたが、貨幣経済が発達したのは宋銭からです。
この頃になると年貢米や公事物も市場で銭にかえ送られたりしています。
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1030989430
徽宗 ウィキペディア(Wikipedia)より
徽宗 (きそう、1082年11月2日 - 1135年6月4日)は、北宋の第8代皇帝。諡号は体神合道駿烈遜功聖文仁徳憲慈顕孝皇帝(退位したので「遜」(ゆずる)という文字が入っている)。諱は佶。第6代皇帝神宗の六男(第11子)。芸術面では北宋最高の1人と言われる。
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『逆説の世界史1 古代エジプトと中華帝国の興廃』 井沢元彦/著 小学館 2014年発行
「新儒教」の創始者・朱子が東洋世界を停滞させた (一部抜粋しています)
12世紀初頭に宋(北宋)が滅びて、南宋が建てられた。中国史における最も屈辱的な出来事の1つである靖康の変で宋は一度滅んだわけだが、滅亡の最大の責任者である徽宗皇帝は、文化人としては超一流で中国文化の一時期を代表する人物である。
書道家としては「痩金体」(痩金は徽宗の号)と呼ばれる独特の書体を創始し、絵画では写実的な院体画の達人で「風流天子」と呼ばれた。
現在も徽宗の真筆絵画は極めて珍重され、日本に伝来した「桃鳩図」は国宝に指定されている。つまり、徽宗という人物は「絵が上手な皇帝」ではなくて、「たまたま皇帝の座に就いてしまったわがままな芸術家」と考えると話が早い。
政治家としてはむしろ最低最悪の人物であった。
奸臣を重用し、自分の贅沢のために民に重税を課し、外交政策では失敗に失敗を重ね。戦争においても決断は遅れ、敵の侵略を招いてしまったばかりか、その責任を息子である次の皇帝欽宗に押し付け、自分だけは敵前逃亡しようとしたという。「世界史暗君番付」を作るとすれば、必ず上位を占めるほどの人物なのである。
ところがこの皇帝を、慈悲深く能力がありながら、側近があまりにも悪辣であったために結果的に国を危うくしてしまったという形、つまり事実とは違いフィクションで美化している文学作品がある。
中国最大の英雄小説『水滸伝(Water Magin)』である。
この小説は元は講談師によって語られる講談であった。一般民衆はこの物語を耳から聞いたのであって本として読んだのではない。しかし、それであるがゆえに、文字の読めない民衆も享受することが出来、後に小説としてまとめられた。
その内容は北宋末期まさに徽宗の治世、奸臣や汚吏が世の中を思いままに動かし不正が常態となった世の中で、こうした悪政によってスポイルされた108人の好漢(英雄)たちが、梁山泊という水の滸(ほとり、自然の要塞)に終結し、まさに遊牧民族に滅ぼさられようとしている国を守るために立ち上がるという物語である。
結局、彼ら好漢は国に仇をなす遊牧民族を何度も打ち破るのだが、奸臣の悪計にはまり滅ばされてしまう。慈悲深い徽宗は彼らのために涙を流すというところでこの物語は終わっている。この物語が最終的にまとまったのは16世紀頃だが、その原型は施耐庵(したいあん)が作ったと伝えられている。既に南宋の初期の頃から講談師によってこの物語は各都市で語られていたらしい。
これが中国民族の、南宋人の、見果てぬ夢の物語だということは、もうお気づきだろう。
実際にはそんな英雄はいなかった。いなかったからこそ北宋は滅び、南宋の時代になったのである。