じじぃの「人の生きざま_131_立川・談志」

談志さん『お別れの会』に約1000人参列 爆問・太田「師匠、優しかった」 2011年12月21日 ORICON STYLE
11月21日に喉頭がんのため亡くなった落語家・立川談志さんの『お別れの会』が21日、都内で営まれ、弔事を読んだ石原慎太郎東京都知事を筆頭に、歌舞伎俳優・中村勘三郎、歌手の和田アキ子、お笑いコンビ・爆笑問題ら各界の著名人ら約1000人が参列した。毒舌や破天荒さが先行する談志さんのイメージとは裏腹に、参列者からは優しい思い出のエピソードがあふれ、“愛されキャラ”だった落語界の至宝の姿が浮かびあった。
http://www.oricon.co.jp/news/entertainment/2004964/full/
立川談志 - あのひと検索 SPYSEE
http://spysee.jp/%E7%AB%8B%E5%B7%9D%E8%AB%87%E5%BF%97/3224/
立川談志 - 饅頭こわい(Part1 of 3) 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=sYhtNCBg2NM
落語家・立川談志さん死去 75歳 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=4Th2yqa_cwE
立川談志 ウィキペディアWikipedia)より
立川談志(たてかわだんし、1936年(昭和11年)1月2日 - 2011年(平成23年)11月21日)は、落語家、落語立川流家元。本名、松岡克由。
東京府小石川区(現在の東京都文京区)出身。政治家として参議院議員を1期、沖縄開発庁政務次官を36日間務めた。サイバー大学客員教授
立川談志は、落語家の名跡。7代目(自称5代目)の死後は空き名跡となっている。
これは明治時代の寄席で人気を博していた釜堀りの談志(4代目)が初代を称し、俥屋の談志がそれに倣って4代目と称していたようなので、小ゑんは5代目というのは語呂が良く、さらに師匠5代目柳家小さんと代数が合うので丁度いいということで、5代目を名乗ることになった(本人の著書『現代落語論』より)。
笑点
日本テレビ笑点』の企画を発案し、1966年5月から1969年11月まで初代司会者を務める。後に、笑点放送100回記念では桂歌丸と異色漫才を行った。
【その他の活動】
手塚治虫の熱烈なファンで、生前の手塚本人との親交も深く、アニメ映画『ジャングル大帝』に声優として参加した(密猟者ハムエッグ役)。声優としての出演には他に『ドラ猫大将』などがある。また、ブラック・ジャックの文庫本にもメッセージを寄せている。

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クローズアップ現代 「人生は落語だ 〜立川談志が残したもの〜」 2011年12月15日 NHK 動画あり
【スタジオゲスト】イラストレータ山藤章二 【キャスター】国谷裕子
「天才」、「鬼才」、「反逆児」。様々な異名をとり、毒舌や破天荒な行動で注目された落語家・立川談志さん(享年75歳)。その真骨頂は、生涯をかけて究めようとした古典落語にある。「落語とは人間の業の肯定である」という持論のもと、登場人物の心理に独自の解釈を加え、晩年まで新たな境地を目指した。得意とした人情噺「芝浜」は、何度もストーリーや主人公の性格を違えて表現し、人間の本質を描こうと模索を続けていた。最後まで独自の芸を追及した談志さんの“生き様としての落語”から、現代人へのメッセージを読み解く。
http://cgi4.nhk.or.jp/gendai/kiroku/detail.cgi?content_id=3136
2011年12月15日、NHKクローズアップ現代』の番組「人生は落語だ 〜立川談志が残したもの〜」より
演芸場の高座で「芝浜」の落語を話し終えた談志さんの映像が出てきた。
「立川雲黒斎家元勝手居士」
最後の最後まで型破りの人でした、先月75歳で亡くなった落語家 立川談志さん。
演芸場の舞台裏でステテコ姿の談志さんの映像が出てきた。
談志さん、(ブザーの音を聞きながら)「始まる開演ブザーが鳴っているのに、この格好なんだから」
破天荒
破天荒な行動や毒舌で注目され、江戸時代からの古典落語に革命を起こしました。
高座の談志さん、「俺の落語ってのはね。行き当たりばったりというのが一番分かりやすい。だからそんときそんときの気分でしゃべっている。酒は人間をダメにするのではない。人間がダメなもんだというものを確認させるために酒が存在している」
客、どっと笑う。
20年近く通った銭湯。私生活も自由奔放。
銭湯の湯船に入って、じっと立っている談志さんの映像が出てきた。
銭湯の主人、「おならをして、それでみんなの顔を見てニコニコしている。どういう反応するか、面白がってやっているんじゃない? ちゃめっけあるよね」
立川志の輔さんの映像が出てきた。
師匠の言葉に弟子たちは戸惑いました。
志の輔さん、「メシ食いながら、『志の輔、そのクモとって、納豆なかったかな。納豆に入れてみて糸の引きがよくなるかどうか見てみろ』って、どうして、師匠、そんなあ」
もっともよく表わしているのが、
「落語は人間の業の肯定である」
という談志さん。自らの言葉です。人間の業、即ち人間の弱さや愚かさを認めた上でそうした人間らしさを描き出すことこそが落語というものです。長い間受け継がれてきた古典落語の人間像や設定を変えたり、あるいは大胆な感情表現を挑んだり、談志さんは現代の人々も共感できる落語を目指して、伝統の破壊と創造を生涯に渡って続けました。
高座に上がって座布団に座ろうとしている談志さんの映像が出てきた。
立川談志さんの落語はいつも本題とは全く関係ない社会批判や人生論から始まります。
談志さん、「今年ね。勇気あることしたの。新聞止めたの。え、言っとくけど止められないよ、なかなか。見事に止めちゃった。ウソばっかり書いてんだもの。地下鉄の水もガブガブ飲んでます。水道の水がどうのこうの、何がグルメだと言いたくなるよね。グルメだったら日本の空気なんか吸うなと言いたくなるよ」
客、どっと笑う。
従来の古典落語とは一線を画す迫力とスピード感で、観客を引き込んでいきます。
高座で「やかん」を話している談志さんの映像が出てきた。
古典落語に革新的なスタイルを持ち込んだ談志さん、その原点は9歳のころ経験した日本の敗戦にありました。
「いい戦争だと思っていたら、悪い戦争だということになった。
 この事のために私はもはや何事も素直に見ない習性を身につけてしまった」
その習性は16歳で入門した落語界でも発揮されました。
落語評論家 矢野誠一さん、(笑いながら)「やっぱり、生意気なやつだな。他の噺家(はなしか)の若いのと違うんだもの。自分より年上とか、そういう権威みたいなものは、ほとんど認めてなかったんじゃない」
談志さんが28歳の時に書いた『現代落語論』。当時の名人たちの芸を詳しく分析した上で、古典落語の現状に危機感を述べています。
「現代と大衆と古典をつなぎ合わせる落語家がいなければ、落語は必ずダメになる」
時代に合わせて、落語を変えていかなければならないと決心したのです。
それを実践した代表的な作品が「芝浜」。VTRが流れる。
スタジオから
国谷さん、「今夜はイラストレーターの山藤章二にお越しいただきました。談志さんとは1つ違いの同世代ということですが。50年近く付き合いがあります。強烈な人ですね」
山藤さん、「強烈ですね。久しぶりに自分に納得している談志さんを見ました。いつも自分の作に不満なんですよ。付き合いは長いですけど、自分に対する点は非常に辛かったです。それだけ向上心があるということなんでしょうけど。さきほどの『芝浜』、テレビを見た人も95パーセントは感銘を受けていると思います。確かに1つの頂点を極めたと思いますけど、長く付き合ってきた私としては、率直に言いますと、多面的な談志という人物の1つの面ではあるけれど、他にいっぱい面白いことがあるんです」
国谷さん、「志の輔さんがおっしゃっていましたけど、『落語と一致した人生を常に送りたいんだ』と、言っている落語家だったということからすると、いつもいつも落語だったんでしょうか」
山藤さん、「そうですね。印象にあるのは『己を語れ』と、よく言ってましたね。己というのは芸人の了見のこと。四六時中、芸人の了見でいろと言うんです。話家、落語家の類はもともとが一般の人、普通の人と違ったアウトローというところに足場がある。そして常識的な物事を考えるな、必ず裏から見ろ、異論を唱えろ、多数派につくな、相手をびっくりさせろ。そんな芸人魂のような、彼の血の中にあることを弟子に叩き込んでいた」
国谷さん、「弟子も常に驚いていたようですし」
山藤さん、「弟子になるくらいのセンスを持った人が、そんな弟子もみんなびっくりしているんですからね。芸人の了見で『オレは隠さねぇからな』と、恥もなにもない、オフもオンもない、全部見せちゃうと」

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『のはなし』 伊集院光/著 宝島社 2007年発行
「好きな理由」の話 (一部抜粋しています)
2年ほど前になるか、自分の担当しているラジオの深夜放送に立川談志家元をお呼びした時のこと。もともと古典落語の道をドロップアウトして今の世界に逃げ込んできた僕としては、談志家元は特別な存在で、何より6年間の修業時代にピリオドを打った理由の1つが「名人立川談志」の落語だった。
仕事疲れか、それが素の状態なのか、不機嫌そうにスタジオ入りした家元。僕は「機嫌を損ねて帰ってしまわないうちに…」とばかりにその話をした。
「僕は落語家になって6年目のある日、若き日の談志師匠のやった『ひなつば(古典落語の演目の1つ。短く軽い話で特に若手の落語家がやる話)』のテープを聞いてショックを受けたんです。『芝浜』や『死神』(ともに真打がおおとりで披露するクラスの演目)ならいざ知らず、その時自分がやっている落語と、同じ年代の頃に談志師匠がやった落語のクオリティーの差に、もうどうしようもないほどの衝撃を受けたんです。決して埋まらないであろう差がわかったんです。そしてしばらくして落語を辞めました」
黙って聞いていた家元が一言。
「うまい理屈が見つかったじゃねえか」
僕はうまいことをいうつもりなんかなかった。ヨイショをするつもりもない。にもかかわらず「気難しいゲストを持ち上げてご機嫌を取るための作り話」だと思われている。あわてて「本当です!」といい返したが「そんなことは百も承知」といった風に家元の口から出た言葉が凄かった。
「本当だろうよ。本当だろうけど。本当の本当は違うね。まず最初にその時のお前さんは落語が辞めたかったんだよ。『あきちゃった』のか『自分に実力がないことに本能的に気づいちゃった』か、簡単な理由でね。もっといや『なんだかわからないけどただ辞めたかった』んダネ。けど人間なんてものは、今までやってきたことをただ理由なく辞めるなんざ、格好悪くて出来ないもんなんだ。そしたらそこに渡りに船で俺の噺(はなし)があった。『名人談志の落語にショックを受けて』辞めるんなら、自分にも余所(よそ)にも理屈が通る。ってなわけだ。本当の本当のところは『嫌ンなるのに理屈なんざねェ』わな」
図星だった。もちろん『ショックを受けて辞めた』ことは本当だし、嘘をついたり言い訳をしたつもりなどなかったが、自分でも今の今まで気がつかなかった本当の本当はそんなところかもしれないと思った。10年もの間、いの一番に自分がだまされていたものだから、完全に飲みこめていないけど。

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