じじぃの「人の生きざま_436_桂・米朝」

桂米朝さん死去 上方落語の第一人者 2015年3月19日 NHKニュース
端正な語り口で知られる上方落語の第一人者で、文化勲章を受章した人間国宝桂米朝さんが、19日夜、肺炎のため亡くなりました。
89歳でした。
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20150319/k10010021841000.html
桂米朝 Beicho Katsura 算段の平兵衛 落語 Rakugo 動画 Youtube
http://www.youtube.com/watch?v=lcQz0VPHv70
桂米朝 Beicho Katsura 五光 落語 Rakugo 動画 Youtube
http://www.youtube.com/watch?v=JXxQ-IDZnhs
桂米朝 (3代目) ウィキペディアWikipedia)より
3代目桂 米朝(かつら べいちょう、1925年(大正14年)11月6日 - )は、旧関東州(満州)大連市生まれ、兵庫県姫路市出身の上方噺家(上方の落語家)。本名、中川 清(なかがわ きよし)。出囃子は『都囃子』。『三下り鞨鼓(三下りかっこ)』は、2008年10月息子桂小米朝が5代目桂米團治襲名の際に桂米團治に譲る。俳号は「八十八(やそはち)」。
現代の落語界を代表する落語家の一人で、第二次世界大戦後滅びかけていた上方落語の継承、復興への功績から「上方落語中興の祖」と言われている。1996年、落語界から2人目の重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定され、2009年に演芸界初の文化勲章受章者となる。1979年には帝塚山学院大学の非常勤講師。

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『以下、無用のことながら』 司馬 遼太郎/著 文藝春秋 2001年発行
米朝さんを得た幸福 (一部抜粋しています)
米朝さんは、私の記憶では兵庫県の秀才中学(旧制)である姫路中学を出て、東京で漢学学校に学んだ。そのことが、その後、すでにほろんでしまった古いはなしをさがし、かつ主題や骨格、あるいは情趣を考証するという考証学的な作業をこのひとがになう上で大いに役立ったろうと思われる。
むろん米朝さんの功績は古いはなしを発掘させたという学問的なことだけではない。この人の天分は、はなしの中の死者たちに息吹きを入れて、現実の私とも生者以上にいきいきとした人間にしたてあげたのである。
しかしその天分は、明治・大正の春団治のそれではない。春団治は、いわば私小説の稀世の名手なようなもので、自分という素材を芸術化したといえる。米朝さんのばあい、固有の含羞(がんしゅう)がつよすぎて、自分自身を曝(さら)すことがない。むしろ曝すに値しない人間だということを頭からおもっていて、はなしの中の他者を愛しぬくことを芸の出発点とした。春団治のばあい”落語の邪道”とか、”一人漫才”などといわれたりした。宇井無愁氏は『上方落語考』(昭和40年・青蛙房)のなかで、春団治の模倣者たちが落語を破壊した、という旨のことをのべている。ただその傾向に抗議する力が、当時(昭和初年)の本格派にはなかった、とも宇井氏はいう。
米朝さんを語るとき、その登場と成熟があらゆる意味で尋常ではないことを思わねばならない。さまざまな分野を通じ、このひとのように復活と新展開という劇的な活動をひとりでやってのけたひとは古来幾人いるだろうか。
くどくいうようだが、米朝さんは上方落語春団治以前にもどし、さらには、桑原武夫氏のいうところの「一流の芸術には不可欠だと思う一要素」をその芸にたっぷりそなえさせたのである。
私は、ここ6、7年、東芝EMIのカセット『桂米朝上方落語集』40数本をくりかえし聴き、その芸から人間の皮膚や粘膜質にふれて感じる湿り、むめり、きめや温度をふくめたあらゆる触感をたんのうした。
しかも演者の精神が高く、このため、たとえば『景清(かげきよ)』に出てくる濡れ場までが、ずきりとするほどに品がある。これも「一流の芸術に不可欠なもの」にちがいない。
ついでにいうと、『景清』のなかに上等の邦楽をきかされているような一瞬があり、失明した主人公が清水の石段をのぼってゆく。のぼりつつ主人公が鼻唄をうたうのだが、登るにつれて息が切れ、足もともよたよたしてくる感じが、長い石段の実感とともにこちらの五感に伝わってくるのである。米朝さんの中でしばしば出て来る古典的な物売りの売り声などとともに、落語の基礎であるところの音楽的要素のたしかさを思わせる。
そのような基礎の堅牢さがあればこそ、米朝さんの人間描写は実に自由なのである。その透きとおった自由さが文学的感銘になって、私どもの心を怡(よろこ)ばせるしんになっている。私は子供のころから小説を読むのがすきで、いまにいたるまでかわらないが、米朝さんほど心をよろこばせるという本質的な機能をもった文学作品に出あうことは、そう多くはない。