じじぃの「人の死にざま_931_武蔵坊・弁慶」

武蔵坊弁慶 - あのひと検索 SPYSEE
http://spysee.jp/%E6%AD%A6%E8%94%B5%E5%9D%8A%E5%BC%81%E6%85%B6/10356/
緒形拳の弁慶立ち往生.wmv 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=V4JbQrq7wxk
武蔵坊弁慶 オープニング ニコニコ動画
http://www.nicovideo.jp/watch/sm17356616
武蔵坊弁慶 ウィキペディアWikipedia)より
武蔵坊弁慶( ? - 1189年)は、平安時代末期の僧衆(僧兵)。源義経の郎党。
五条の大橋で義経と出会って以来、彼に最後まで仕えたとされる。講談などでは義経に仕える怪力無双の荒法師として名高い。『平家物語』では熊野別当湛増の子で、紀伊国出身だと言われるが詳細は不明。なお、和歌山県田辺市は、弁慶の生誕地であると観光資料などに記している。
元は比叡山の僧で、武術を好み、義経に仕えたと言われるが、『吾妻鏡』には文治元年(1185年)11月3日に「辨慶法師已下相從」11月6日に「相從豫州之輩纔四人 所謂伊豆右衛門尉 堀弥太郎 武藏房辨慶」と記されているだけで、その生涯についてはほとんど判らない。一時期は実在すら疑われたこともある。しかし、『義経記』を初めとした創作の世界では大活躍をしており、義経と並んで主役格の人気がある。

                              • -

『世界と日本の怪人物FILE』 歴史雑学探究倶楽部/編集 学研 2010年発行
武蔵坊弁慶(むさしぼうべんけい) (一部抜粋しています)
武蔵坊弁慶と聞けば、日本人ならたいていは山伏(やまぶし)姿で長刀を持つ勇ましい姿を思い浮べることだろう。
ところが、史実の弁慶となると驚くほどその実像がはっきりとしない。そもそも出目が明らかでないのだ。一般には紀伊国の田辺(現在の和歌山県田辺市)に生まれたという説が有名だが、出雲(現在の島根県松江市)生まれという説もある。ただ、いずれも弁慶が「鬼子」として生まれたとする点では共通している。
室町時代初期に成立した戦記物語『義経紀(ぎけいき)』によると、弁慶は18ヵ月間、母の胎内に宿っていた。生まれ落ちたときにはすでに3歳児ほどの大きさで、髪は肩が隠れるほどで、歯もすっかり生えそろっている状態だった。一説によると、弁慶の母は懐妊中になぜか鉄を食べたくなり、近所の農家から鍬(くわ)を盗んでは食べていた。そのせいか、生まれてきた子の肌は鉄色をしていたという。
成長した弁慶は、札つきの暴れん坊になり、怪力で村人たちに恐れられていた。しかも、すぐ癇癪を起こす。その悪童ぶりは、業(ごう)を煮やした母が、わが子を孤島に幽閉したほどだった(その島が松江市の弁慶島だといわれている)。
成人後も、弁慶の傍若無人ぶりはとどまるところを知らなかった。たとえば、比叡山延暦寺に入っては、延暦寺に敵対する三井寺の鐘を略奪してきたり、京の五条大橋では千本の太刀を奪う願を立て、道行く人々を襲うなどの悪行を繰り返していたのだ。
しかし、ある運命の出会いが悪漢を英雄に変える。その相手こそ、源義経その人だ。源平合戦で大きな功を立てながら、兄である源頼朝に憎まれ、遂には非業の死を遂げた武将。弁慶は、その第1の家来となったのである。
ところで、冒頭にも触れたように、実際の弁慶については不明な点が多い。そのため『弁慶架空人物説』さえ存在するが、『吾妻鏡』にその名が登場することから、少なくとも義経の部下のひとりに、「弁慶」という名の人物がいたことは確かだろう。
      ・
こうして、義経とともに奥州(現在の東北地方北東部)にたどりついた弁慶だったが、頼朝を怖れた奥州藤原氏の軍によって攻められてしまう。奮戦むなしく、圧倒的な兵力の差を前に、弁慶は体中に矢を受けて、立ったまま死に、義経は妻子もろとも自害して果てたというのが、一般に語られる両者の最後だ。
だが、実はふたりは奇襲を受ける前にその地を離れ、北へ逃れて生き延びたという説も存在する。その真偽は定かではないが、兄に追われた悲劇の主従の生涯は、さまざまな伝説に彩られ、語り継がれているのである。

                              • -

武蔵坊弁慶 Google 検索
http://www.google.co.jp/images?hl=ja&rlz=1T4GZAZ_jaJP276JP276&q=%E6%AD%A6%E8%94%B5%E5%9D%8A%E5%BC%81%E6%85%B6&gs_upl=0l0l0l693lllllllllll0&sa=X&oi=image_result_group