じじぃの「人の死にざま_890_安岡・正篤(陽明学者)」

安岡正篤 - あのひと検索 SPYSEE
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オリラジ中田が紹介する都市伝説「昭和史を裏で動かした謎の人物 安岡正篤とは?」 動画 YouTube
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積中不敗 易学入門 安岡正篤 動画 YouTube
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安岡正篤「一日一言」 | 致知出版社安岡正篤先生のページ
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やりすぎ都市伝説 「2015秋」 2015年9月23日 テレビ東京
【司会】今田耕司東野幸治千原兄弟 【ゲスト】的場浩司、YOU、中山秀征、大和田獏、清水ミチコ伊集院光 【プレゼンター】中田敦彦オリエンタルラジオ
▽昭和史を裏で動かした謎の人物 安岡正篤とは?
吉田茂ら総理大臣の裏に実力者いた。それは安岡正篤という人物で、彼は日本の指導者を育成していた。
佐藤栄作ジョン・F・ケネディとの会談をする時に安岡正篤がアドバイスをして、のちに沖縄返還を実現した。安岡正篤は無名でありつづければ影から力を発揮し続けられるだろうと考えていた、終戦天皇玉音放送の原稿作成に安岡正篤が関わっていたと言われている。
平成という元号安岡正篤が残していたと中田敦彦が話した。伊集院光は戦時中の日本の政治家も影響を受けていて戦犯に裁かれようとしたが、蒋介石アメリカから救ったと語った。
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安岡正篤 ウィキペディアWikipedia) より
安岡正篤(1898年(明治31年)2月13日-1983年(昭和58年)12月13日)は陽明学者・思想家。
【経歴】
現在の大阪市中央区生まれ。少年期、母、近所の神社のおじさんなどから、四書五経素読を授かる。1922年(大正11年)に東京帝国大学の卒業記念として執筆され出版された『王陽明研究』が反響を呼ぶ。
大学卒業後に文部省に入省するも半年で辞し、「東洋思想研究所」を設立、当時の大正デモクラシーに対して伝統的日本主義を主張した。拓殖大学東洋思想講座講師をする傍ら『日本精神の研究』『天子論及官吏論』などの著作を発表し、一部華族や軍人などに心酔者を出した。1927年に酒井忠正の援助により「金鶏学院」を設立し、1931年には三井や住友などの財閥の出資により埼玉県に「日本農士学校」創設し、教化運動に乗り出した。
敗戦後に、かつて安岡が創設した各団体や学校は連合国軍最高司令官総司令部により解散を命じられ財産は没収、安岡自身も大東亜省奉職を理由に公職追放される。1949年に「師友会」(後の全国師友協会)を結成、機関紙『師と友』の発行による次代の指導者の育成や、全国各地を巡っての講演、更にはラジオによる講話などを通じた東洋古典思想の普及活動を行った。
「平成」の元号の発案者と言われている。
【再婚】
1983年、当時銀座のバーのマダムであった細木数子と再婚の約束を交わしたが、当時85歳で、認知症の症状があったと言われ、40歳近く歳の離れた女性との再婚であり、実際の結婚生活がほとんどなかったことから安岡家の親族が猛反対したが、細木が安岡と交わしたとされる「結婚誓約書」なるものを元に、婚姻届を提出し、受理されたことで、安岡家は東京地裁に「細木との婚姻の無効」を求める調停を申し立てた。その翌月安岡は他界。調停は婚姻はなかったこととして、細木が初七日で戸籍を抜く事(結婚生活は、事実上無し)で決着した。
蒋介石 ウィキペディアWikipedia) より
蒋介石中華民国の政治家、軍人。国民政府主席、初代総統で5回当選し、あわせて1943年から死去するまで中華民国元首の地位にあった。
【人物】
陽明学の信奉者である。戦後にGHQ安岡正篤を戦犯に指定しようとした際に、蒋介石が反対したとも言われている。遺されている小物や衣服、写真を見てわかるとおり、公式の場で特注の軍服などを着用していたものの、プライベートでは派手好きな妻と反対に非常に質素な生活を好み、静養地でも読書に耽っていたり、妻と茶などを楽しむ程度だった。

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『本物に学ぶ生き方』 小野晋也/著 致知出版 2009年発行
思考の三原則 安岡正篤(やすおかまさひろ) (一部抜粋しています)
安岡正篤。暦にに名を残す仕事をした日本の有名な陽明学者です。
1つだけエピソードを紹介しましょう。
終戦詔勅(しょうちょく)についてです。「臥薪嘗胆(がしんしょうたん)」という言葉が、当初の文案には入っていたそうです。中国の古い時代のことですが、2つの国が相争ったとき、負けた王が、この悔しさを決して忘れてはならないと心に決めて、夜も温かい布団に寝るのではなく薪(たきぎ)の上に寝て、その痛さを体から忘れないようにし、おいしい食事を食べるのではなく苦い肝をなめて、その悔しさを忘れないようにした。その後に、復讐を果たすという話から生まれた言葉です。
昭和20年8月15日、日本が「臥薪嘗胆」の思いを持って敗戦を受け入れたとすると、その後の日本人はいずれの日にか復讐の日を迎えなければならないことになってしまいます。それでは日本の国民が不幸な道を歩むことになってしまうではないかと考えた安岡が、その言葉に代えたのが「万世の為に太平を開かむと欲す」という言葉でした。
つまり、この敗戦を受け入れるのは本当に悔しい、苦しい、つらい。しかしながら、日本人はこれを末永く平和な世界を実現するために受け入れるのである。こういう大義を打ち立てたがゆえに、日本はその後、平和国家としての道を歩むことができたと言えるのです。
安岡は言葉をとても大切にしました。そして、その言葉の奥に宿る思想こそが人生を決め、世の中を形づくる根源の力と考え、世界中の人々の言葉に学び、思想を研究した方です。
さて、ここでは、その彼の「思考の三原則」について考えていきます。「思考の三原則」とは、
一 眼先にとらわれず、長い目で見ること。
一 物事の一面だけを見ないで、出来るだけ多面的全面的に観察すること。
一 枝葉末節にこだわることなく、根本的に考察すること。
この3つです。これが、激動の時代において日本の国のあらゆる分野のリーダーの考え方として大事だと思うのです。私たちは激動の時代であればあるほど、そこにきちんとした原理原則を持たなければなりません。その原理原則を与える基本的な考え方がこの3つなのです。

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