じじぃの「人の死にざま_859_児玉・誉士夫」

児玉誉士夫 - あのひと検索 SPYSEE
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児玉 誉士夫 こだま よしお、1911年2月18日 1984年1月17日 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=CrSxL6okSTw
予告篇 日本の黒幕 フィクサー 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=PVupkPZUHso&feature=related
児玉誉士夫 フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』 (一部抜粋しています)
児玉誉士夫は、日本の右翼運動家、黒幕、CIAエージェント。暴力団・錦政会(後の稲川会。会長は稲川裕芳で、後の稲川聖城)顧問。「政財界の黒幕」、「フィクサー」と呼ばれた。
【生涯】
福島県安達郡本宮町(現本宮市)に生まれた。
最初社会主義に傾倒したが、その後超国家主義に転じ、玄洋社頭山満に私淑した。1929年には赤尾敏によって創設された急進的な右翼団体「建国会」に加わった。すぐに昭和天皇に直訴しようとして捕まる。この天皇直訴事件で半年投獄された。
1938年に日中戦争が始まった。翌1939年、外務省情報部の懇意の笹川良一の紹介で採用され、海軍航空本部の嘱託となった。1941年真珠湾攻撃の直前、海軍航空本部独自の物資調達の為に笹川良一が山縣正郷少将に紹介、その後任者が大西瀧治郎少将(当時)で、後に大西中将が自決する日まで、親しい間柄となる。(大西中将が自決に使った刀は児玉が贈った物といわれる。)それにより上海に「児玉機関」と呼ばれる店を出した。これは、タングステンラジウム、コバルト、ニッケルなどの戦略物資を買い上げ、海軍航空本部に納入する独占契約をもらっていた。当初、現地で商事会社東光公司を経営していた水田光義の水田機関を通じて物資を調達していたが、水田機関のピンハネが余りにひどいことに気づき、これを排除。1943年、水田が暗殺される。これは児玉機関の仕業とされる。
第二次世界大戦終結後に上海から持ち帰った資金(現在の時価にして3750億円)を海軍に返還しようとしたというが、この資金は、調べられれば、汚れた金であることがわかってしまう。それで、戦時犯罪の疑いをかけられたくなかった海軍は、児玉に処分を依頼。旧海軍の資産のためアメリカも没収せずに、宙に浮いた。児玉は、巣鴨拘置所に共にいた右翼でヤクザの親分でもある辻嘉六に勧められて、この資金の一部を鳩山ブランドの日本民主党(鳩山民主党)の結党資金として提供した。
1976年(昭和51年)、アメリカ上院で行われた公聴会で、「ロッキード社が日本の超国家主義者を秘密代理人として雇い、多額の現金を支払っている」事実があきらかにされ、日本は大騒ぎとなった。その後三木武夫首相によってこの事件の捜査が開始され、すでにこの事件の中心人物と目されていた65歳の児玉は衆議院での証人喚問がおこなわれる直前に「発作」を起こし、床についた。
一方、児玉は死期が近づいた時、「自分はCIAの対日工作員であった」と告白している。72歳の児玉は判決が出る直前の1984年(昭和59年)1月に再び発作を起こして世を去った。

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『人間臨終図巻 下巻』 山田風太郎著 徳間書店
児玉誉士夫(こだまよしお) (1911-1984) 73歳で死亡。(一部抜粋しています)
いわゆるロッキード事件は、昭和51年2月5日、アメリカ議会の多国籍企業小委員会で暴露されたのを発端とするが、チャーチ委員長は冒頭声明でいった。
「最も許せないのは、ロッキード社が、日本の極端な軍国主義の政治集団の指導者に、巨額の金を支払ってきたことだ」
このことが日本の新聞に報道されるや、朝野驚倒した。
まだこの時点においては、いわゆるロッキード事件の全貌は明らかに知らされず、日本人がまず驚いたのは、上記チャーチの声明があきらかに指している「児玉誉士夫」という名であった。
児玉は、日中事変中、海軍省の嘱託として上海に児玉機関なるものを作って、海軍から支給された莫大な金で軍需物質の獲得にあたり、敗戦後A級戦犯となった。そして釈放後は、児玉機関に残された巨額の資金を保守党に投じ、かつ上記の経歴を武器にして政財界の隠然たるフィクサーとなっていた。人々はその名をきいて怖れつつ、しかし一部では彼を右翼の巨頭、一種の国士として見る者もあったから驚いたのである。
彼自身、自伝の中で「家族のために汗を流せ、友のために涙を流せ、祖国のために血を流せ」とか、「財閥や権力と手を結び、私腹を肥やすことのみ没頭しきった悪徳政治家に極度の不信と侮蔑を持つ」と書いた。(『児玉誉士夫回想録』)
終戦後、神風特攻隊の指揮者大西滝治郎海軍中将の割腹にも立ちあったその児玉が、山本五十六大将を撃墜したP38機を作り出したアメリカの航空機会社ロッキードの秘密コンサルタントとして、巨額の報酬と、日本への売りこみのためのワイロを受けとっていようとは!
児玉誉士夫の国士としての威名は一挙に崩壊した。
のちに考えれば、アメリカの航空機会社のコンサルタントが日本に存在してもふしぎではないのだが、これが曝露されて驚愕したのは、一般の日本人よりも児玉自身が甚だしかったろう。この曝露直後の彼の狼狽ぶりがそれを物語る。のちに彼は検事の取り調べに対し、「日本海軍を悩ませたロッキードコンサルタントとなったことは、一生の不覚であった」と述べたといわれる。
彼は、それ以前の昭和49年9月、大西海軍中将の伝記映画「ああ! 決戦航空隊」の試写会で脳梗塞を起こして倒れ、秘密裡に入院し、一応治癒して退院したことがあったが、このロッキード事件開幕直後の2月12日、便所で再発作を起こして倒れたのは、やはり事件の衝撃のゆえであったろう。
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しかし彼は、そのころは身体は付随でも意識はまだ正常であったが、55年9月に3度目の発作を起こして入院した。これ以来、意識は混濁状態になった。56年3月に、第1審で、ロッキード社から受領した巨額の金の脱税その他で、懲役3年6月、罰金7億円が求刑されたが、彼の病状が重いために判決言い渡しは不可能となった。しかしそれは「有罪」であったといわれる。
そして、廃人状態のまま昭和59年1月17日午後6時13分に死んだ。

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