じじぃの「人の死にざま_835_スカルノ」

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Pidato Presiden Soekarno: Negara Tanpa Konsepsi 動画 YouTube
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私の職業はデヴィ夫人〜激動の半生〜 (2000) 6/7 動画 YouTube
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スカルノ フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』 (一部抜粋しています)
スカルノ(Sukarno、1901年6月6日 - 1970年6月21日)は、インドネシアの植民地時代(オランダ領東インド時代)から民族主義運動、独立運動において大きな足跡を残した政治家である。
Sukarnoでフルネーム。独立宣言後、同国の初代大統領となり、雄弁な演説とカリスマ性によって、大衆の民族意識を鼓舞した。1965年の「9月30日事件」によって失脚した後は不遇の晩年を送ったが、いまなお国民には「ブン・カルノ」(カルノ兄さん)と呼ばれ、国父として敬意をもって愛され続けており、現在も10万ルピア紙幣に肖像が描かれている。
第3夫人はデヴィ(Dewi, 1940年-)(日本名:根本七保子、タレント)。
【戦争と革命】
太平洋戦争が始まり、日本軍がオランダ領東インドを占領すると、第16軍司令官である今村均はオランダに囚われていたスカルノやハッタらを解放し、今村は民生の安定のために知名度の高いスカルノやハッタらの民族主義者の協力を要請した。他方のスカルノらもまた民衆総力結集運動を組織し、インドネシアの独立のために日本軍に協力しオランダ軍と戦うことを選択した。1943年に日本に訪問をしている。
日本の敗戦から2日後の1945年8月17日、スカルノとハッタの2人が「インドネシア国民の名において」インドネシアの独立を宣言。しかし、これを認めないオランダは軍を派遣し、同地の再植民地化に乗り出した。
【9月30日事件へ】
「9月30日事件」において、「急進左派軍人勢力による国軍首脳部暗殺」というクーデター、それに迅速に対応したスハルトを中心とする右派軍人勢力を中心とした反クーデターの成功。そして、その後の国内で右派軍人勢力による「共産党員狩り」が行われた。
この事件後、国内で共産党が一掃されたことにより、バランサーとしてのスカルノの求心力は失われ、右派軍人勢力による共産党員狩りが行われた結果、冷戦下の東南アジアで最大規模を誇ったインドネシア共産党が壊滅したことは、「ドミノ理論」を唱えるアメリカなど西側諸国にも歓迎されることになった。共産党への接近の責任を追及されたスカルノは、大統領の権限を奪われ、1966年3月には大統領職を停止され、実権を失った。
インドネシアはその後、スカルノから実権を奪って1968年3月27日に正式に第2代大統領に就任したスハルトの「新秩序」体制のもとで、冷戦下の東南アジアにおける反共国家として西側諸国との関係改善、国際社会への復帰を果たしていく。一方のスカルノは軟禁状態におかれたまま、1970年6月21日にジャカルタで死去した。

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『世界の「いま」がスッキリわかる! 逆さ読み世界史』 歴史の謎研究会/著 青春出版社 2011年発行
インドネシア あの権力交代劇の裏側には何があったのか (一部抜粋しています)
世界最大級のマグニチュード9.0を観測した「東日本大震災」は、日本が地震大国であることを改めて認識させられるには十分すぎる大惨事となってしまった。そこで、同じアジアで地震大国と聞いて、真っ先に思い浮かべるのはインドネシアだろう。
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17世紀にオランダがジャワ島から入植して以降、20世紀に至るまでのじつに300年間「オランダ領東インド」としてその名を刻んでいる。
しかし、1920年にはインドネシア共産党が、1927年にはインドネシア国民党がそれぞれ設立され、オランダからの独立運動の中心的役割を担った。ちなみに、インドネシア共産党は東南アジア初の共産党である。
第二次世界大戦後の1950年、ついに「インドネシア共和国」として独立を果たす、そっして独立後のインドネシアは2人の指導者とともに歴史を歩むことになるのである。
その一人目がインドネシア国民党のスカルノである。初代大統領に就任したスカルノは植民地時代の記憶を一掃すべく民族主義を強く掲げた。対外的には中国に接近し、国連からも脱退して独自の社会主義路線を歩もうとする。
「ブン(兄貴)・カルノ」の愛称で国民にも親しまれたが、1965年9月30日、クーデターの勃発で局面はガラリと変わることになる。
同日深夜、ジャカルタで大統領親衛隊のウントン中佐が率いる決起部隊が、陸軍首脳6人を殺害し革命を宣言したのだ。これを戦略予備軍司令官であったスハルトが鎮圧。結局クーデターは未遂に終わったが、この事件によってスカルノ大統領は失脚するのである。
この「9・30事件」のあちに権力を握ったのは、事件を処理したスハルト本人であった。スハルトはクーデターに同調した党員や支持者を虐殺し、共産党を消滅させている。
そして、1968年には正式に大統領に就任し、ここから30年の独歳政治が始まるのだ。
しかしスカルノの独裁は、ミャンマーやフィリピンのそれとは一線を画している。
スハルトはまず中国との国交を断絶し、親米路線に政策を変更して国連にも復帰した。こうして西側の資本が入ることで、国家は右肩上がりで発展していったのだ。
だが、さまざまな利権をスハルトの一族が独占したことや、貧富の差が広がったため、国民の間でしだいに不満が募っていく。そして、それが爆発したのが1998年だった。スハルトはとうとう辞任に追い込まれたのである。
その後、9・30事件の関係者から「9・30事件の黒幕はスハルトだった」との証言がなされたことは世界中で話題になった。しかし、スカルノは1970年に、スハルトは2008年に死亡しており、今では知るよしもない。

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