内田百間 - あのひと検索 SPYSEE
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内田百輭「百鬼園長夜」(1) 百鬼園先生の肉声! 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=LkiSzWq_NtM
内田百輭「百鬼園長夜」(2) 百鬼園先生、歌う! 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=3ijgD4AoCRk
内田百間 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (一部抜粋しています)
内田百間は、夏目漱石門下の日本の小説家、随筆家。本名は内田榮造。
戦後は筆名を内田百輭と改めた(読みは同じ。輭は門構えに月)。別号は百鬼園。
「百輭」は、故郷岡山にある旭川の緊急放水路である百間川から取ったもの。別号の「百鬼園」を「借金」の語呂合わせとする説もあるが、本人は一応のところ否定している。
迫り来る得体の知れない恐怖感を表現した小説や、独特なユーモアに富んだ随筆などを得意とした。後輩の芥川龍之介に慕われたほか、師である夏目漱石の縁故から夏目伸六と親交が深かったことでも有名。
【人となり】
・持ち前のいたずらっ気やユーモアもあって、特に法政大学教授当時の教え子(なお、百輭自身はこの呼称を非常に嫌っており、「学生」と呼んだ)達から慕われた。還暦を迎えた翌年から、教え子らや主治医・元同僚らを中心メンバーとして、毎年百輭の誕生日である5月29日に摩阿陀会(まあだかい)という誕生パーティーが開かれていた。摩阿陀会の由来は、「百輭先生の還暦はもう祝ってやった。それなのにまだ死なないのか」、即ち「まあだかい」に由来する。ここにも百輭一流のユーモアと諧謔を垣間見ることができる。黒澤明監督による映画「まあだだよ」はこの時期を映画化したもの。なお、この摩阿陀会に対する返礼として、百輭は自腹で御慶の会を正月三日に同じ会場(東京ステーションホテルがその主な会場となった)で催した。
・文学上の師匠に当たる夏目漱石や、琴、酒、煙草、小鳥、鉄道、猫、郷里の銘菓大手まんぢゅうなどを愛し、それぞれについて多くの著作が残されている。
・女優高峰秀子は最も愛読する作家として百輭の名を挙げている。
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『人間臨終図巻 下巻』 山田風太郎著 徳間書店
内田百間(うちだひゃくけん) (1889-1971) 81歳で死亡。(一部抜粋しています)
「5月3日の御慶(ぎょけい)ノ会、5月29日の麻阿陀(まあだ)会に出席出来ない年が3年程つづいた」
と、弟子の平山三郎は書く。
・
内田百間が次第に痩せ衰え、起居も困難な状態になったのは、昭和42年春先からであった。最後の随筆集『日没閉門』は、夫人に背中から支えさせて書いたものである。
かって一劃もゆるがせにしなかった文字は、判読に苦しむほど乱れたものになった。
そしてこの本の校正刷が出はじめたのは、昭和46年2月からであった。
「大きな食卓のある座敷の方へ出て来られることは既に出来ない。旧(ふる)い3畳の真ん中の部屋を寝間にして、先生は横臥したままの日常だった。臥(ふ)せた先生の傍、次の3畳の敷居あたりに私は坐って、奥さんが運んでくれるお盆の上のジャムパンをいただく。先生は横になったまま、ジャムパン杯にストローを入れて飲まれる。ビニールの管(くだ)で吸い飲むジャムパンは旨くはなさそうだった。――校正刷をその枕元でひろげて、不審な個所を次々に訊くのだけれど、先生の文字と言葉遣いについての神様は、さほど衰えているとは思えない。
――書きたいことはもう2、3きまっている。早く床上げして机に向う積りだが……そうだね。その前にステーションホテルで快気祝いをしよう、と云われる。満更(まんざら)、カラ元気でもなさそうだった」(平山三郎『百鬼園先生逝く』)
そして、4月20日、午後5時20分。
「ジャムパンをストローですすり、煙草をちょっと吸ったあと、苦痛の色もなく主治医に見とられたまま息絶えられた」(平山三郎『百鬼園大人の生と死』)
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内田百間の言葉
「社会に出て役に立たぬ事を学校で講義するところに教育の意味がある」
「金とは、常に受け取る前か、又はつかった後からの観念である」