じじぃの「科学・芸術_566_芥川龍之介『トロッコ』」

紙芝居紫織屋「トロッコ」(語り・川尻亜美) 原作/芥川龍之介 動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=md35JjCg5jY
 トロッコ

『短編小説のレシピ』 阿刀田高/著 集英社新書 2002年発行
芥川龍之介 <トロッコ><さまよえる猶太人>そして、その他の短編 より
芥川龍之介明治25年(1892)に東京で生まれた。生後9ヵ月ごろ母が発狂、龍之介は母の実家に預けられ、後に養子となって芥川姓を襲うこととなるが、ものごころのついたときから数年間にわたり、みじめな実母の姿をかいま見たことが龍之介の精神形成に大きな影響を与えたことは疑いない。長じて自分の発狂を極度に恐れたことも充分に頷ける事情である。
学校生活ではつねに抜群の秀才、読書を好み、広汎な知識を蓄えたが、このことは同時に文字通りのブッキャシュ(bookish)、本による知識こそが彼の脳みその主要な養分となったことも事実であった。
東京帝国大学の英文科に進み、卒業間近に短編小説<鼻>を発表して夏目漱石の絶賛を受け、作家としてデビュー。ほんのいっとき海軍機関学校の教員を務めたが<芋粥(いもがゆ)><手巾(ハンケチ)><煙草(たばこ)と悪魔>など名作を次々に発表して新進の寵児となった。
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<トロッコ>は四百字詰めの原稿用紙で12枚ほどの分量、短い中に少年の心理が巧みに捉えられている名作だ。この特徴のせいで小・中学校の教科書や童話集に採用され、多くの日本人が読んでいる。おなじみの名作と言ってよい。
幼いころの恐怖体験……。べつに妖怪変化が現われるわけではないけれど、太古から人間が抱いてきたであろう大自然へのおそれ、夜への恐怖、未知なるものへの畏怖、プリミティブではあるけれど、だれの胸にも潜んでいるセピア色の不安をこの作品にほのめかしている。
私も中学生のころに読んで、一定の感銘を受けたと思うのだが、そのときの記憶は明らかではない。30歳を越え、文筆家となってあらためてこの作品に触れ、とりわけ最後の数行に気づいて思案を深めた。職業的な思案と言ってよいだろう。作品の主人公・良平は少年時代の体験を……トロッコに乗せてもらって遠くまで行き、ひとりで帰らなければならなくなった恐ろしさ綴ったあとで、
  良平は二十六歳の年、妻子といっしょに東京へ出て来た。今では或雑誌社の二階に、校正の朱筆(しゅふで)を握っている。が、彼はどうかすると、全然なんの理由もないのに、その時の彼を思い出す事がある。全然なんの理由もないのに?――塵労に疲れた彼の前には今でもやはりその時のように、薄暗い藪や坂のある路(みち)が、細々と一すじ断続している。……
と、述懐し、作品を終えている。
――うまいな――
と思った。この数行により作品の奥行きが一気に深まった、と感じた。
小説というものは過去を描きながら現在に響くものがなければつまらない。大事件や英雄の登場がテーマとなるものではなく、些細な過去を描いた場合は、とりわけこの配慮が必要だ。取るに足らない過去をポンと置かれて「はい、どうぞ」そのまま終わられては挨拶にしようにも困ってしまう。
少年としての良平の体験は、当人にとっては大変なものであったとしても、それ自体はさほどのことではない。笑い話にもなりかねない些細な出来事でしかない。だから、それだけで終わったら、つまらない話でしかないだろう。
だが、最後の数行を書くことにより、過去と現在が関わって響きあった。子どものたわいのない不安が、大人の不安、生きていくことの不安、大げさに言えば人間存在そのものの不安と共鳴した。ほどよく、明瞭に鳴って響きあった。
この共鳴は、作品の最後ではなく、進行のプロセスで響かせることも可能であるけれど、ことさらに最後で示せば、印象が濃くなりこれはこれで、
――ひとつの有力な手法だな――
と私は目を止めたのだった。
――盗めるかもしれないぞ――
と、そのとき思ったかどうかは忘れたが、心に強く残ったのは本当だった。
そして、後日、私は本当に盗んだ。